歳を取るとともに、世間への関心や他人への許容範囲が広がる。私は若いときには、それこそ寛容な価値観が全身に流れて、若い人への人生のお手本的な生き方が普通になると思っていた。それが現実は逆ではないかと思うこのごろだ。


引退時期を失した老人政治家たちが森元首相はじめ吠えている。老人になると首に鈴を付けられる人がいなくなる悲しさ。人間が歳を取るだけでなくて、近年、社会そのものが寛容さや許す許容度が下がっていると思うのは私だけだろうか?社会が老化しているとはどういうことだろうか?起業家の人数が減っていたり、冒険をしていく人が減って、既存のルーティーンにかまけて生きる人が多くなってきたのかもしれない。減点主義の役所的な人間の跋扈である。変わり者が生きにくいから、私はこう思うという内容が、画一的な価値観の範囲にないと除外や排除される集団主義に振り回される。


生きる世界も狭く限定されて、そこでの安心を願いながら暮らしてゆく。広い視野で物を見る、他者の視線で考えてみる、ずっと高いところから自分を俯瞰してみる、違う国から自分の国を見てみる、また、同じような事件や政治の動きが世界中であったとして、それと自分の国の状況を比較検討して、世の中の流れを把握する。そういう癖を具体的な毎日の暮らしの中で養ってゆく習慣は、流行に流されないようにするためには大事なことだと思うが、新聞・テレビがオリンピック漬けに入るときに、男子のテニスプレーヤー上位5人が参加しない、自分のコンディション作りに百害あって一利なしと判断したのは偉い。国威発揚に利用されやすいスポーツを、あくまで自分の体調とこれからの大会スケジュールを考えて無理して参加しない判断に感心する。


そうした自己本位の生き方、周りの空気を読まないで生きる勇気、私は私、あなたはあなた。そういう相手を尊重したエゴが普通になるのはいつのことだろう。政治の世界に入ると麻薬のようだと元政治家の本を読んだことがある。月々の給与や使える経費、帰郷する飛行機代や秘書を雇う人件費、周りから「先生、先生」と遇される快感。弁護士がテレビに出て有名人になり政治家の世界に入る人が多い。テレビに出るだけで入るギャラを考えると、こつこつ裁判の資料を調べ上げて弁論を行う日々が馬鹿らしくなるらしい。弁護士から政治家のコースはあるけど、政治家をした後弁護士に戻る人はどのくらいいるのだろうか。たぶんもう現役で使えなくなるかもしれない。

  1. 上を向いて歩こう?ではなく、周りを見て歩こう!ですね。広角的にバックミラー、サイドミラー、フロントもしっかり確認して歩かなくては、自分の進行方向が定まらないわけですね。それにしても、世の中には虚業が多すぎる。政治家も弁護士も頭と口だけで稼ぐ快感を覚えた者は、もはや身体を使って働こうとはしないし、綺麗なオーダー・スーツから野良着に変えようとは決してしないだろう。彼らの世界では足の引っ張り合いが日常だが、蹴落とされても生きる道だけは、ちゃんと用意周到、忘れられた頃にまた這い上がって来る。悪評高かった前東京都知事も給与はもちろん、ボーナスや退職金を貰ってから辞める彼のシナリオ通りだったが、今や暇を持て余して変装してジョギングなどしているそうだ。いくら変装しても性格は一生変わらないだろう。これまで、上を向いて歩いて来たが、今度は下を向いて、小石につまずかないよう、十分気を付けてジョギングでもしていた方がいい。そのうちに小池氏から、召集が掛かるかも知れないが。

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