(続)ニュースが何もない一日。(2015年8月14日掲載)
テレビは「きょうはニュースになるような事件は何もありませんから、静かに安心してお過ごしください。ではさようなら」。新聞も1面で「きょうは伝えることがありませんので、真っ白な紙面です。お悔み欄だけは〇〇面に収容しました。明日も何もなければ、きょうと同じ紙面になります」。
今日から見れば、これは異常な事態かもしれないが、想像をたくましくしていただければわかるけど、新聞発行される明治5年「東京日日新聞創刊」以前は、号外や立札や噂話で庶民は事足りていたのである。(ちなみに明治8年にすでに新聞の戸別宅配という制度を作っていた)
私のきょうの話はメディアがあると、事件は作られやすいということである。たぶん私は事件や事故や殺人やイベントや騒音や、そういう事柄がない静かな環境を無意識に欲しているのかもしれず、そうなら山の中に行って仙人にでもなればと言う人もいた。そういうことではなくて、十分、静かな日常は送れると思うのだが。日曜日に娘婿を迎えに新千歳空港へ行くが、人人人。
先日、美瑛と富良野へ撮影に行った友人からメールがきて、「自分たちが外国人ではないか」と錯覚するぐらいの国外観光客ラッシュだと。小樽へ行った別や友人も同じような内容のメールが来た。茹でトウモロコシが1本500円だとも。せいぜい高くても300円が相場。どうして小樽はこういう値付けを平気でするのだろうか?昔、寿司の値段を巡って作家か評論家が酷評して大問題になったばかりなのに、過去に学んでいないね。
きょうのテーマは「ニュースが何もない一日」だったね。そうか、動いてあちこち行くと、そこに人の波があって、私に耳と目と言葉があれば何かを目撃して、さらにメディアと接触したり、携帯やパソコンがあれば使ってしまう自分の感性や手段があって、自分はお喋りときているから、そもそも無理難題なテーマを掲げたに過ぎない。
けれども一日でもいい、殺人がない、自殺がない、せめて事故がない一日があってほしいと切に思う。私たちの感性が、そういうのは当たり前に起きることだよと当たり前に思うことが当たり前ではないのだということに気づきたいものだ。身近に防げるものには防いでいきましょう。NEWの複数形がNEWSか?せめて事件が複数から単数形になってくれればね。
日露戦争で偶然にも日本が勝って、その勝利に歓喜したのはいいが、次の目標を失ってしまった若者たちが「何か面白いことはないか」と彷徨する風景を石川啄木は「時代閉塞の状況」というエセイで書いていた。退屈は若者だけでなく、人間が根源的に持っている病気かもしれない。満腹した動物が無駄な動きをせず、じっと座ってるか寝ているのが生物として正しい生き方を、人間はどこかで狂ってしまったのかもしれない。文化や文明を作ってしまった。(8月31日加筆)。後ろ向きに未来へ向かっている。
百姓も経験済みの男。
例えば、グルメと称して、次々と美味いものを探し歩く。美味いとか、まずいとか、いっぱしの評論家よろしく自慢げに話す。TVでは大食い番組。こんな情景は貧困な地域の人たちには見せられない。どこか感覚が麻痺している。本物のグルメなら食材を育てたり、採取したりする事から始めたらいい。生産者の気持ちをも逆撫でするような番組はやめた方がいい。TVも新聞も、昨今のメディア離れは、その編集に大いに原因があると思う。
バカボンのパパ。
噂を流して扇動する役割をメディアが片棒を担ぐと、世の中は情報を信用して動き出すから恐ろしい。内閣もメディアをコントロールしたがっているし、現に現実のモノにもなっている。「国の言う事の反対をやっていれば間違いない」と嘯いていた人がいたが、その通りかも知れない。「賛成の反対なのだ!」
貧乏暇なし年中無休。
僕も、退屈は我慢できない一人だろう。ひっきりなしに何かをやっていなければ落ち着かない。今も、掃除を終え、朝食しながらPCを打つ自分が居る。さぁ、次っ!次っ!風呂に入って、出かねなければ。
昭和退屈男。
退屈な時は床屋に行くといい。最近の流れ作業的な床屋チェーンは多忙な時は重宝するが殆ど会話は無い。だから退屈しのぎにはならない。やっぱり、町の散髪屋が一番だ。黙っていても向こうから話しかけてくれて、知らない情報も教えてくれるから最高だ。こんな散髪屋が年々少なくなって来た。昔ながらの散髪屋は退屈な男たちのオアシスだ。
昭和退屈男。
退屈な時は床屋に行くといい。最近の流れ作業的な床屋チェーンは多忙な時は重宝するが殆ど会話は無い。だから退屈しのぎにはならない。やっぱり、町の散髪屋が一番だ。黙っていても向こうから話しかけてくれて、知らない情報も教えてくれるから最高だ。こんな散髪屋が年々少なくなって来た。昔ながらの散髪屋は退屈な男たちのオアシスだ。