物をできるだけ持たずに生きることが贅沢に見えるときがある。その人に気品さえ感じることがある。ある詩人の書斎が窓を開けると日本海、小さなテーブルに載っているのは『広辞苑』と万年筆と原稿用紙。厳しい詩が出てくる気配を感じる。


物は次の物を呼び寄せる。車や家もそうだ。自足していて満足感がみなぎる人って現代はとても少ない気がする。猫のマイペースで生きる猫人生に憧れる人が多い、癒されるのは猫は他の猫と比べたりした人生を送っていないからかも。物を持たないと、最小限の物しかないと他人の持ち物が気にならなくなるから不思議だ。物を持てば同じような物を持ってる人と同じ土俵に立つことになって比較が始まる。


消費を煽るCMやコピーは『急がせ、焦らせて、人を走らせて、買わせる』動かせるためにある。『自分の持っているものは、古くて、買わないと買わないと』と消費者を動かす。1品しかないものはさらに価値を上げる。絵画・骨董類であるが別に生きる上で必要のないものだ。


しかし、持たないとはいっても、文化的な最低限の暮らしは憲法で保障されているのだから、雨露をしのぐ家屋と食べていけるだけのお金は必要で、地方から都市へ出てきて働くことは、正規社員で福利厚生で住居費が支給されている企業で働けるならともかく、非正規やパート労働、シングルマザーが保育費を払いながらの暮らしは並大抵ではない。


実家が都市部にあっても、非正規であるがゆえに親と同居したり、親の近くに暮らしてお金の支援を受けないと生きていけない人も多い。親自身も年金でギリギリの暮らしをしているケースが圧倒的だから、子供の依存を必ずしも歓迎しないし、子ども自身も親から実は離れたい気持ちが強いが、金銭的に無理と判断して嫌々同居している。親子関係が必ずしも良好とはいえないケースも多く見られる。


筆者が知るケースでも40歳を過ぎても引きこもりパラサイトしている男性がいる。もう15年にわたっている。両親は趣味の毎日を送り、できるだけ自宅にいる時間を最小にしようと落ち着きがない。しかし、親が先に逝ったらその子はどうするのか?もっと早い措置や相談をあちこちのNPO法人やソ-シャルワーカーに話していればと思う。


近所の農家の経営者に相談すると『人手不足だから、連れてきて。働くの全然OKだよ』と言われて伝えたが、農家へ行くまでの足が無い。ガリガリに痩せていて肉体労働ができ得ない体になっていて私としてもどうしていいか困惑している。自分を受け入れない社会だから(被害妄想)、彼はネットにつながらないパソコンをいじり、携帯も持たず生きている。『持たない贅沢さ』といってもここまで持たないことはない。


引きこもりは、彼の心の中を見てみないと、個別に会話しないと前進できない。一般論と説教ほど彼らが嫌うものはないからだ。言われることは知っているのだ。必要なのは『言葉しかない』。それを誰がどういう表現で、タイミングで話せるか。再生させられるか?それだけは持つように生きたいが。それだけは筆者もどこかで学ばないといけない。そう思うこのごろだ。

最近、若者の現状と未来が気になってしょうがない筆者だ。30歳の息子と34歳の娘がいるからかもしれない。昨日、雨宮処凛(かりん)『生きづらい世を生き抜く作法』(あかひげ書房)を借りて読んでいる。

  1. 僕はCMにかかわっているが、ビジネスだから販売に結び付けるためには間違いない。でも、押し売りしているつもりはない。広告の商品を購入する・しないは受けての自由判断にゆだねているからだ。欲しければ購入するだろうし、欲しくなければ興味を持たないのではないだろうか。その商品が受けてに必要なものかも知れないし、単なるぜいたく品かも知れない。人それぞれの趣味の違いや考えがあって一概には批判は出来ないと思うし、みんながモノを持たなくなれば、果たして、それは、最も幸せで贅沢な事なのだろうか?

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