家柄・血筋・学歴・地縁(匿名 リリパット)
『知の考古学』(現在廃刊 1976年9月10日 第10号 71p~73p)田中角栄がロッキード事件で逮捕されて、民主主義が『成り上がり』を保証していたにも関わらず、全国民が突如(正義の人)ばかりになったことについて書かれた匿名エセイである。現在は雑誌廃刊でほとんど読めない文章なので、引用させていただく。名もなく、金なく、学ない百姓の息子がどうすれば一国の首相になりうるか胸に手を当ててとくと考えたエセイである。(同号 71~73p)
この国で、人を推し量るのに用いられる物差しがある。誰しも思い当たるところはあるはずで、それらのどれにもかからぬ者は、うろん(注 いい加減な)な輩として〈無宿人別帳〉に組み入れられこと、企業・官庁、学界を問わず、日本のあらゆる人間関係に普遍的原則といってよい。要すれば、それは〈群れの原理〉、さかのぼれば〈村の掟〉にほかならないのであって、内には、それこそゆりかごから墓場まで互いに知り尽くし、外に向けては、他者者(よそもの)に極度に猜疑を燃やす、古来伝承の〈世界の計り方〉が今にいたるまでこの国の津々浦々、人間組織のすみずみまで張り巡らせれていること、伝統がかくも現代のなかにみごとに生かされていることは、世界にも稀有なる事例として、私たちは人類学に貴重なる貢献をしているというべきなのかもしれない。・・・・早まってはならないのは、これはけっして〈表〉の原則、〈公〉のものではなく内なる暗黙の掟であって・・・・・学者の世界もそうである。ただ当方のように単純な者にとって不思議でならないのは、地縁、血縁、閨閥、門閥、家柄、身分、先輩後輩、あらゆるしがらみの身で生きていながら、なぜそのことを大っぴらに認めようとしないのか、ということである。それが自分たちの生きてる世界なら、あっさりそれを生きるための掟、と認めてしまえばよさそうなものを・・民主主義のご時世に、学歴・血筋の差別などはあろうはずはございません・・すべて個人の能力次第などと〈たてまえ〉を言い募るからややこしくなる。・・・・日本では言葉であらわせれた思想はすべてジョーク(冗談)でしかないと言った人がいるがいみじくも的をついている。これでは、外国人(とつくにひと)が理解しがたいところである。
全編こんな調子で4ページにわたって書かれている。今から40年前に書かれた文章である。筆者は、あの大きな耳を持った廊下ですれ違った教授ではないかと推測はしているが、『ガリバー旅行記』に出てくる小人国リリパットを書いたスウィフトみたいな教授である。最後はこの国の(言霊・・ことだま)について。要は〈霊・たま〉が張り付かない〈言・こと)は意味をなさない抜け殻。折口信夫の深さとと柳田国男の食い足りなさにまで言及、古代天皇制へと言論は進む。
現代、流行のRINEも所詮、仲間内の村社会強化の役割を果たしているかもしれない。日本社会がもともと村社会だから、その普及も早かったし、仲間からの排斥メールや誤解読みで人間関係をおかしくしている。メディアは変わっても、〈表)と(裏)(たてまえ)と〈本音)は生き続けている。リリパット先生が生きていたらきっとそういうかもしれない。
自殺願望。
先輩だ、後輩だと、よく耳にする。かつて同窓と言うだけで親戚縁者兄弟姉妹親子でもあるかのようにお互いが便宜を計る構図は蔓延していた。その点、そこから一歩離れた友人はしがらみがなくていい。しかし友人も度が過ぎると朴槿恵のような羽目になるから恐ろしい。人間同士は親しき仲にも礼儀ありで、ある程度の距離をおくべきだろう。あまりにもズカズカと懐深く踏み込んではいけないと思う。相手が歓迎していれば別だが。多感な思春期にLINEだのNETだのでの情報を信じてしまう若年層が多く、またでたらめな情報を流す輩も居て、風邪薬を大量に飲んだり、リストカットしたり、自殺願望の子供たちさえ増えている。十数年しか生きていないのに、もはや人生に疲れているようだ。親さえも知らないところで。人間関係も別次元のところに向かっているようだ。
文豪ストレイドッグス。
小学生、中学低学年の間ではやっている「文豪ストレイドッグス」は繊細なアニメ風なキャラクターが文豪たちを身近にさせているのだろうか。
中原中也を「ちゅうやくん」、大宰治を「だざいさん」、などと、まるでアイドル並みの熱の入れようだ。これに絡んだキャラクター・グッズも人気で、札幌市内でも「アニメイト」などはいつも超満員。歴史ものも、小説も、みんな漫画アニメ風に変わって読まれている。「知」には程遠いいが、その一方で、宮沢賢治などもちゃんと読んでもいるらしい。読書から全く離れたわけではないので、まあいいとしよう。特に女の子たちの間だけだが。