ゴーストライターの存在。
1月15日に「フェイク」(偽物)をテーマに書いたが、ゴーストライターはいまや無くてはならない存在。テレビも映画も出版も政治活動も成り立たない。そのくらい大事な人たちだ(らしい)。
自分史をライターに語って書いてもらうお金持ちも増えてきた。男に多い願望だ。お金の次は名誉や勲章を欲しがるからかもしれない。たぶん、自分が死んでも記憶しておいてくださいねということだろう。アメリカ大統領の演説も優秀なライターの存在なくして成り立たない。毎日のNHKのニュースも政治部・社会部・経済部の記者が原稿を書いて、アナウンサーがそれに差し障りのない一言を加えながら、話し言葉に改変しておしゃべりしている。
筆者も恥ずかしながら、現役時代、イベントののシナリオを書いていた。司会者へ事前に渡して説明し、最後の質疑応答は、質問者が出ないことも想定し、質問者をあらかじめ用意もした。いつかやっていた電力会社の原発説明会にサクラを用意していた広告代理店があったが、程度の差はあってもやってることは同じだ。いま考えると、自然に流れることはなくて無理やり、決められた時間内で要領よく、ことを済ませることだけに終始している仕事。赤面する。
人間の性格で人前に出て目立つ位置に立ちたい人もいれば(芸能やスポーツ・政治向き)、後ろに回って縁の下であっても書きたい人(さらに後ろからコントロールしたい人)もいる。以前、在職していた会社で社長を動かして人事権を振るった者もいたが、次の社長でバレて失脚した。しかし、後ろで人事のシナリオを書くゴーストライターであることには変わりはない。
ゴーストライターには広告世界でコピーライター経験者が多い。しかし、ライターは調べること、勉強する量、読む本は半端ではない。業界には技術用語もあるし、政治の世界なら法律にも明るくないといけない。リクルートという企業が昔、学校や企業のPR記事をたくさん書いていたが、そこからライターの仕事で独立していく人も多いと聞く。ただ、お金をもらって書くと、制約がきつい。ゴーストライターの辛さは、嘘に耐えられるか。つまらない話を大げさに書く必要もあるし、まずい食品を美味しいという表現にしないとクライアントは怒る。自分にとってつまらない表現がスポンサーが絶賛したりする矛盾。繰り返すうちに感性がへたる。
とはいえ、自分が話していること、書いていることで、オリジナルな話って思ったほど多くは無くて、誰かの言葉を借りていたり、流行の単語を使ってみたり、すでに自分より先にたくさんの人が話していることも多い。それを使わせてもらってる。やさしい言葉で言いたいことを伝えるのはむつかしいものだ。子供と話すとそこが磨かれるらしい。
宗教の世界もゴーストライターだらけ。旧約も新約の聖書もたくさんのゴーストライターの集積だ。イエスは自分で書いていない、語っていたと書かれている。●●したと書かれている。宗教は必ず最後はよりどころとして「本」に行き着く。活字が読めない人へは「語りや教え」。ラジオやテレビを使って布教する宗教、そのコピー文章もライターの大事な仕事。人の人生を狂わせる力をゴーストライターが持っていることか?人生を救うと考える人もいるかもしれないが、単純にお金儲けの宗教に見えてしょうがない。教会の財政基盤が救われるだけに見える。
したたかな人々。
地位と富を得た人たちの大半は,メディアを手にしたり,例えば派手なF-1のスポンサーになったり,あるいは伝記を出版したりする。その存在は十分に知られていてもだ。並みの人たちが到底できない事をするばかりではなく,同レベルの人たちの中でも競争しあう。そこには無理も生じて,財力に任せて他力を利用する。これまで他人を利用してのし上がっても,さらに他人を踏み台にしてでも名声を上げたがる。誰も望んでいないのに?。ただ,利用される振りをしている利口な人たちもたくさんいる。この人たちは,地位と富を得ようとする人たちを利用しているとも言える。地位や富を捨てても,そのほうが楽な生き方だからだろう。いずれも,したたかな人たちだ。
ライターのゴーストライター?。
広告と言う職業に着けば,当然ながら販売促進のためのコピーも,ヴィジュアルや,写真や,デザインを要求される。また,ビジネスには売り上げと利益のバランスが必要で,その利益が働くための賃金や経費に充てられ,原動力にもなる。それぞれが専門分野で最善の力を発揮して広告も表現される。多くの人たちの手で。ディレクターやプロデューサは脚光を浴びるが,多くのクリエーターたちは縁の下の力持ちとして毎日を過ごしている。著名になればコピーライターも作詞をしたり本を出したりするが,もしも,その執筆をゴーストライターが手掛けたとしたら?ヒンシュクだ。
書いたものを読むだけでも,リハーサルは重要。
十数年前に,某地元放送局に提供してしまったが,10ヵ月連続で著名人を呼んで講演会のイベント企画を実施していた。局のお手伝いと言うことで新人らしきアナウンサーの訓練も兼ねて,開演前ステージでのMCをお願いして進行した。その頃の男性新人アナウンサーは,今では立派に野球解説からニュースまでこなしているベテランになった。一方,女性アナウンサー数名にもMCをお願いしていたが,その中の一人の方が,本番で,赤面するくらいの読み違いをしでかしてしまった。当然ながら本人は読み違いに気づかなかったようだが,客席を埋めた5~6百名の方々のどよめきはしばらく続いた。その原稿は僕が書いたものだった。「何卒,よろしくお願いいたします」と締めくくったはずが?「なにそつ,よろしくお願いたします」に変えられてしまったのだ。彼女の無知を批判しても済んでしまった事は取返しが付かず,本番前の読み合わせリハーサルをしなかった僕も大いに反省したものだ。それ以来,「何卒」は「なにとぞ」と書くようにしている。「卒業」の単語しか習っていない世代に,我々古い世代の常識論を振りかざしても始まらないと悟った事件でした。仕事柄,中継放送原稿なども書く機会が多いので,読み手のことを考えて,間違いやすい箇所にはルビをつけるようにはしていますが代筆は難しいですね。