共謀罪についての議論で、「権力は恣意的に、自らの顔を隠して時局にそぐわない匂いを過剰に探し出す」ことを黒澤明も気づいていた。新しい表現をする人間にとってつらい時代であったが、いまもそれは変わりないかもしれない。テレビ番組の90%は「視聴者はバカになーれ、アホになーれ!」と呪文を唱えて製作されてる気もするのだ。高等教育を受けたテレビマンたちが、なぜ視聴者を愚民化するのだろうか?

黒澤明「蝦蟇(ガマ)の油」より、検閲官についてのこと

怒りの赤富士

怒りの赤富士 自身のスケッチ

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ここは彼の声まで聞こえる文章を引用するしかない。

「戦時下の日本の言論は、日ごとに窮屈になり、私の書いた脚本も、会社の企画に取り上げられても、内務省の検閲で撥ね付けられた。検閲官の見解は、絶対であって、反論は許されなかった・・・反論には何かというと米英的である、ときめつけて、反論には、感情的になって権力をふるった・・・・。サンパギタの花という脚本でフィリピンの娘の誕生日を祝うシーンを米英的だといって私を詰問してきた。・・・私は天長節という天皇誕生日を祝うことしてるじゃないですか。あれも米英的ですか?検閲官は真っ蒼になった。そのシナリオは葬られた。・・・・当時の内務省の検閲官は、みんな、精神異常者のように思われた。彼らはみんな、被害妄想、加虐性、嗜虐性、色情狂的な性向の持ち主だった。・・・たとえば、(勤労動員の学生たちを、工場の門は胸をひろげて待っている)と書いても猥褻だと言う。なぜなら、彼らは門という字で、陰門を想像したのだから。色情狂は、なんにでも、劣情を感じる。・・・まさに天才的な色情性というほかはない。それにしても、検閲官というドーベルマンは、時の権力に、よくも飼い馴らされたものだ。時の権力に飼い馴らされた木っ端役人ほど怖い者はいない。ナチズムにしても勿論ヒットラーは狂人だが、ヒムラーやアイヒマンを考えても解るように、下部組織に至るほど天才的な狂人が輩出する。それが、強制収容所の所長や看守に至ると、想像を絶した狂人になる。戦時中の内務省の検閲官は、その一例だろう。彼らこそ、檻の中に収容すべき人間である」黒澤明の激越な文章である。

 

「彼等のことを思い出すと、思わず身体が震えてくる」黒澤明は、自分の脳は脳血管が異常に屈折していて真性癲癇症だと。子供のときもひきつけをよく起こした。癇癪持ちなのはそんなところにも原因があるが、検閲官への恨み・憎悪は凄い。(長い話・・p251~253)

 

この自伝では、軍人のお父さんの厳しいしつけについて、弱虫・泣き虫の子供の頃、必ず助けてくれた4歳上の兄のこと。4男4女の一番下に生まれた黒澤少年の生い立ちが、関東大震災の風景、徴兵の検査のとき貧弱な肉体と検査官がたまたまお父さんの部下だった幸運もあり兵役免除されたこと、小さなときから映画を山のように見たこと、その思い出すままに映画名が出てくるが初めて聞く映画ばかり。さらに兄の住んでいた下町長屋で、そこに暮らす人々と接しながら「まるでここは落語の世界ではないか」と思わせた。山の手育ちの黒澤明をびっくりさせた。

 

天才的に頭の良かった、東京府下で一番の成績の兄が進学に失敗(たぶん面接のときのその態度に不合格になったと推理している)し、映画館に雇われる説明士(弁士)になり、自由に弟に的確にいい映画をチョイスして鑑賞させ、黒澤少年の映画感性の下地を作ってくれたことである。

しかし、時代は無声からトーキーへ。弁士の仕事が少なくなってくる。組合の委員長をやらされて悩み、27歳で自殺する兄への感謝は並大抵ではない。黒澤青年23歳のときの事件だ。映画界に入るのが26歳。小学時代、いじめられていたときも、必ずやってきて彼を守ってくれた。

この「蝦蟇の油」は、シナリオを書くように必死に書いているのが伝わってくる。

それと恩師山本嘉次郎さんへの尽きることのない感謝である。映画作りで細部にこだわること、音楽は控えめにすること、俳優の動かし方も山本監督を見ていて学んだ、映画をつくるときに一番肝心は、助監督選びだと。現場を任せるわけだから。任せる人を間違えると映画は台無し。企業にすれば倒産を招きかねない。

 

私は言葉こそうまく喋れないが、世界中のどこの国へ行っても違和感も感じないから、私の故郷は地球と思っている。世界の人間がみんなそう思えば、いま、世界に起こっている馬鹿なことは、ほんとうに馬鹿なことだと気が付いてやめるだろう」(127p)地球でさえ狭く感じる感性を持っている黒澤だから「世界虫」みたいな人。世界中の映画監督から尊敬されていたわけだ。虫だから地を這う視点も当然持っている。(2017年5月20日追加 NHK関口知宏の中国鉄道の旅の再放送を見ていて、黒澤監督の言葉を地でいって旅をしている彼にしばし感動する)

 

J・ルーカス、F・フォード・コッポラ、スピルバーグ、マーティン・スコッテセン。地上や地下からも、地球外からも視点を移動して物を考えられ、映画を作れる。

「人間の奥底には、何が棲んでいるのだろう。その後(自分の悪口を言い触らし結婚を邪魔した男について書いた後)、私は、いろんな人間を見てきた。詐欺師、金の亡者、剽窃者・・・。しかし、みんな、人間の顔をしているから困る。いや、そういう奴に限って、とてもいい顔をして、とてもいい事を言うから困る」(295p)。

モーツアルトのピアノを弾くナチスの高官が同時にユダヤ人の囚人を窓から撃ち殺すシーンを描いた「シンドラーのリスト」のワンシーンを思い出す。私にとっていい人は他人にとって悪人的な存在、むしろこちらの方が多いかもしれない。奥さんや子供にとっていい旦那が実は会社では過酷なリストラをしていて、憎まれる存在であったり、会社で有能な仕事をする人間が、家庭では居場所のない余計者あったりするケースの方が多いように思う。下の2本も黒澤明について書いてあります。

2月9日「地震のエネルギーの10%、日本で放出。黒澤明のこと。

2月10日 黒澤明とJ・ルーカス

  1. 一生を賭ける。

    その時代の事象や事件や人間の生き様や物事を見たり,聞いたり,あらゆる事を未体験の人には書けないシナリオですね。彼の映画製作への情熱は半端ではなく逸話もたくさん残されています。時代が彼の感性を刺激したのでしょうか。あんなに逞しい風貌の彼が幼少期にはいじめられっ子とは意外ですが,現代社会では,いじめられっ子を救う者が居ないですから,自殺してしまいますから,反骨精神も生まれません。巨匠と言われる人たちに共通するのは黒沢明のお兄さんのような存在の人が身近に居ることですね。学校でも寄らば大樹の陰とばかりに権力に寄りそう子供たちばかりで,弱者にこっそり手を差し伸べる人が少なくなっている様ですね。「弱いもの潰し」これでは隠れた才能も開花しませんね。山下清では無いですが,ほかの人と比べれば一般的な違いはあっても才能は素晴らしいものがあります。彼たちのような才能を伸ばせる社会が望ましいですね。一つの事に熱中できる人生は羨ましい限りです。

    • 映画館に通うきっかけもお兄さんです。東京大空襲のあと、お兄さんと焼跡を見に行きます。焦げた遺体が仏像のように
      立っている風景に出合い、黒澤明は目をそらします。そのときお兄さんは『まっすぐ直視しなさい』と注意を促します。
      この文章も読んでいて感動するところです。お兄さんは映画の弁士の組合の責任者でしかたから、トーキーが終わる時代
      のはざまにいたのです。ただ、お兄さんの自殺と黒澤自身の自殺未遂と重なる時が筆者にはあります。山の手のおぼっちゃん
      でしたし。お父さんも偉い軍人でした。いじめられっこには横に必ず、助ける人がいましたね。精神的にも肉体的にも強い
      小学生や兄弟が子供時代からいましたよ。子供は親の見えないところで成長するわけだから、大切なところです。

  2. プロフェッショナル。

    巨匠たちの映画には必ず「善」と「悪」が登場しますね。その「せめぎあい」のシナリオを観て,観衆は手に汗をして,目に涙して,共に怒り,共に喜び,共に泣く。これが「感動」と言うのでしょう。人々に「感動」を与える仕事に人生を賭けた作品はいつまでも人々の心の中で生きていますね。こんな感動を生み出す術は一体?何でしょう。それは作者の体験から生まれるのではないでしょうか?とすれば,毎日のんびり平和に過ごしているだけでは,何も生まれないでしょう。自らあらゆる事に興味を持ち,それなりの勉強や実体験などを経て初めて斬新な発想が生まれるのでは無いでしょうか。天才は努力の部分を決して他人には見せませんし,語ろうとしませんね。「とっても苦労したよ」と言うのは天才ではなく,ただの凡人のセリフですね。真のプロフェッショナルは,いつも結果としてカッコいい部分しか見せませんね。

    • 昨夜、田宮二郎の『白い巨塔』を見てました。大阪大学医学部をモデルにして書かれてて、最初から戝前助教授を悪人
      に描いていました。小さなときにお父さんを亡くして母の手一つで育てられて、産婦人科の戝前家に養子に入り、義父
      に教育費を出してもらい上り詰める話ですが、『砂の器』のストーリーに見る古典的な手法ですね。サクセスストーリ
      のようで最後は自身のガンで末期を迎える、砂の器は出世の邪魔になる女性の殺人で逮捕。善と悪の境があいまいな、
      しかし、最後は足して引いてゼロのような気がしますね、人生論的には。

  3. なぜ検閲が成り立ったかというと、本なら店頭に並んだ後、映画なら封切りになってからおもむろにチェックして、ダメを出されるからです。制作費、印刷費をかけてしまってから販売禁止になるわけだから、制作側はたまったものではありません。そこで、自発的に原稿段階で検閲をお願いに参上することになります。悪質ですが、巧妙なやり方です。

    • 北海道の北の街の葬式で、名家(?)の父親の葬儀がシンプルで終わってから喪主へ地味な葬儀へのクレーム
      が殺到。『母親のときは派手に葬儀をしてやる』と息巻いてました。地域もさることながら家風や一族のプラ
      イド、他家への見栄が、高齢とともに仕事もなくなり、葬儀が大仕事になってます。大分の娘の嫁ぎ先の葬儀
      は、お通夜で3000円くらい包んで、夕食をごちそうになり、次の日は告別式を午後から。なのでお昼ご飯
      も3000円の中で食べてから告別式。『地域が遺族を大事にしますから』という意味らしい。葬儀費用の準備
      も大変みたいです。1周忌も同じようにたくさんの住民が集まり、飯をふるいます。

    • 事前の自己検閲でリスクを回避する生き方ですね。一度、恫喝をいれておけばOkな世界。テレビなら総務省から
      免許を取り消しですか。戦前は新聞は紙の供給を止めました。発行できないよう。大本営の強さですね。したがって
      現代は、マスメディアよりミニコミやミドルメディアが大事になります。検閲の前に正確な話をアップすることで、現実
      を写せます。

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