何事もない幸せ、しかし長くは続かない。
世の中、世界じゅう、日本じゅう、イベント流行り。企画やイベントを作り続けて35年になるけれど果たして本当に腹の底から滲み出すイベントは何本あったか数えてみた。企画者も参加者も真剣なイベント、これはもうイベントと呼ばず、事件に近い。そうやって、人を集め、スポンサーがお金儲けをできるようセットしたものである。
しかし、定年を迎えてひとりになると、静けさと新千歳空港の下を通る追分活断層が揺れないこと、近くの有珠山や樽前山・恵庭岳が爆発しないこと、石狩川に連なる一級河川の漁川が氾濫を起こさないこと、自宅道路の通学路で車が暴走しないこと、突然刃物を持った人が自宅に現れないこと、自宅の電気系統やガスから発火しないこと、私の心臓がそろそろ寿命とお告げがきたらじたばたせずその運命に従うこと。さらに現在の年金状況で、夫婦の暮らしが成り立っているが、食べられるだけの暮らしがいつまで続くかも大きなことだ。
自宅庭のブルーベリーは、歩道を通る知り合いから「ことしも豊作ですね」と声をかけられると、実を摘んでいる筆者は気分が良くなって「ビニール袋を持ってきますから、お待ちください」と言ってわずかな実ではあるが渡すことにしている。これも近所で平和に暮らす生活の知恵である。高さ2メートルを超えた木になったブルーベリーは冷凍庫に保存すると1年分になる。秋になるとブルーベリー専用の肥料と土を来年のために樹木の周りに加える。外から見ると何事もない暮らしや人生であるが、バラの手入れや木々の手入れに時間と体力を要する。
庭の仕事の戦力であった妻が乳がんを患い、X線照射で体力減退であるから、慣れない仕事を私が代行しているわけだ。しかし、ヒヨドリとスズメがかわるがわるブルーベリーの実を食べに来ると嬉しい。スズメを追い出すヒヨドリは生意気さを感じるが自然の掟だ。そういう一日があると幸せ感や平和を感じるが、明日はわからない。きょうの延長で明日は来ないからだ。
私の心筋梗塞による救急車搬送も、妻の肺炎と乳がんの発見もそうだった。真夜中の電話で父がトイレで急死したと母からの電話もそうだった。事件はある日突然やってくる。これだけは真実だ。「平和に退屈を覚える人が多い」「なので何か変わった面白そうなイベントはないかな」と探す人。退屈な平和に耐えられる、ひとりでいることに十分楽しみを見出せる、筆者にとって理想の人生である。そして誰かを支えて上げられる人生。騒々しい芸能人が多くなって、スイッチを切ることが多くなった。