一度作った物は、滞留時間をできるだけ長く・・・・(鈴木孝夫)
『一度作った物は、滞留時間をできるだけ長く・・』(鈴木孝夫)
大学の夏の特別講義で鈴木孝夫さんの言語論を聞いたことがある。『閉ざされた日本語云々』の本を読んでいたので参加したのだが、先日、『しあわせ節電』(文春)を図書館で見つけて、節約・節電の実践者としての鈴木さんがいた。その中に、私も少年時代、長屋暮らし・市場で買い物をしていたころを思い出す2行が出てきた。『一度、作った物は、人間社会の中での滞留時間をできるだけ長くしようとするのが、昔の日本でした。ちょっと使ってパッと捨てるなんていうことは考えられないことでした』(58p)『戦前、・・ゴミ集めが東京の町中でさえほとんど来なかった』(57P)『包装紙は木や竹のように自然に返るものばかり』。江戸時代、江戸は世界一のエコ都市であったのは誰でも知っていることで、糞尿さえそれを担いで、近郊の農村へ売って歩いて生計を立てていた人がいたのである。
市場に行くと木を薄く切った『薄皮』に食べものが包まれていた。豆腐は自分で『鍋』を持って行き、豆腐屋さんに入れてもらった。小揚げを1枚サービスでもらった喜びが今も残っている。残りご飯は、もう一度そのご飯をとろとろにして糊にして、チラシや新聞紙を切って糊を付けて、袋をつくり、野菜屋さんや魚屋さんへ持っていくと1枚1円で引き取ってくれた。それを店では次のお客へ商品を入れる紙として使うのである。汚くなって使えなくなった新聞紙は次に、燃料として使用される。さらに新聞紙は湿気を吸わせるために畳の裏側にびっしり張られた。薄皮も最後は燃料になって、ゴミらしいゴミは出ない。チラシ1枚もトイレの紙にするために手もみをして柔らかくする仕事も少年時代にしたことがある。水洗トイレではないから、落とし紙として使われた。
時代の変わり目はプラスチックの出現で、燃やすと有毒ガスを発生させるが可変的で、物を包む容器として重宝され、我が家でも『燃えないゴミ』の最大量で毎週毎週出させてもらっている。このほか燃やせるゴミ、新聞・段ボール、家具を出せる大型ゴミも1か月に1回ある。100円のシールをスーパーで買って貼るだけ。畳は1回に3枚まで、300円で済む。6畳なら2か月かけて捨てることになる。着るものも大事にして、最後までゴミになることはないよう使われた。手芸の世界の始まりは、捨てられないものを美しく何かに変身させる術がルーツかもしれないと思うようになるくらいだ。
現代は真逆の世界で、いずれ、自然から復讐されるときが来るかもしれないなあと思うこのごろである。物の使い捨てだけでなく、人まで使い捨てにされている。
坊主の孫。
アメリカの消費社会を驚いていた日本人が同じ消費時代を迎えるなど当時は誰も考えられなかったですね。さらにはアメリカの肥満社会を対岸の火事のように傍観していた私たちがメタボになるなんて思いもよりませんでしたね。そしてアメリカのクルマ社会を驚嘆していた私たちが一家に数台の車の所有者になるなんて、しかも自動車生産国になるなんて誰が想像したでしょうか。アメリカだけでなく世界と繋がるにつれて日本らしさは消えてしまいました。でも、僅かに残る日本の良さが、今、一部の外国人達に見直されているのも不思議ですね。私たちが忘れてしまった筈の日本を。
昔の少年。
少年の頃、女友達のうちが豆腐屋さんでした。鍋を片手に朝20分も歩いて買いに行くと彼女の母も父も大歓迎してくれて併設している駄菓子屋の飴を「ハイお駄賃!」と言って数個くれました。オカラもタダでもらって朝ご飯の前に家に戻りました。小学校は僕の家のすぐ近くなので朝のんびりしていると、豆腐屋のミッちゃんが必ず立寄って一緒に登校しました。6年生までそんな事が続きました。中学になると僕は学校から遠くなって自転車通学になり、今度は彼女の方が学校に近くなったのですが、お互い思春期になり次第に離れて行きました。遅刻常習犯の僕はいつも自転車を飛ばしてギリギリセーフで登校するとクラス全員が窓から大拍手で迎えてくれました。中学は生徒数も多く付き合う友達も増えて、お互いの距離はどんどん離れて行き、異姓を意識するようになり、照れもあって話さえしなくなりました。それ以来、僕は豆腐も買いに行かなくなりました。豆腐を見るたびに思い出す昔の少年時代です。今では朝早くから冷たい水を相手に働き者の豆腐屋さんも少なくなりましたね。
seto
私も中学の3年間、毎日、豆腐屋さんの同級生を誘って通学してたので、よくわかります。豆腐の浮いている水の
冷たかったこと。こんな中で朝早くから働いているんだと感心してました。豆腐売りもいましたね。ラッパを吹いて
リアカーに乗せて。納豆も一緒に売り歩いていました。昔は何の仕事をしているかよく見えました。札幌二条市場の
近くにかまぼこ屋さんがあって、営業の途中、熱々のカマボコを買って、食べながら創成川のベンチで食べていました。
元、塩ビメーカー社員。
塩化ビニール製品の多さに驚きますね。包装資材はほとんどが塩ビです。でも実は僕が最初に就職したのがそんな塩ビ製品のメーカーだったのです。当時は花形産業で、あらゆる物を作っていました。大理石模様の床タイルからパイプからバスや電車の手すりや吊革など社会から歓迎され増産していました。ダイオキシンの問題は全くありませんでした。原発と同じで廃棄処理問題を置き去りにして社会の要望に応える名目で生産だけが進められたのです。当時メーカー自体もこんな社会問題化するなどとは知らずにいたのです。社会問題化した今も生産は続いています。それが証拠にビニールゴミの日にはゴミステーションの塩ビゴミが、どのゴミよりも一番多いのです。世界各国では今ようやく塩ビのストローを廃止運動が始まりましたが、包装資材の無害廃棄処理の研究は進んでいるのでしょうか。死滅した海洋生物の体内からもビニールゴミが見つかっていますね。
seto
私の親戚も塩ビのメーカーで営業をしています、現在も。中国へも交渉に行ってます。化学工業ですね。自分たちのつくるもの
(発言を含めて)、最終的にどういう影響を与えるのかについての思慮が足りないのでしょう。世界中の人たちもそうでは?と
いう気もします。もう一度、ホモサピエンスの歴史を勉強、進化について学ばないといけないと思ってます。
反省だけなら猿でも出来る。
この度の胆振東部地震で教訓を得た事は、物の無い状況で如何に生き抜けるかと言う事でしたが、物に頼り過ぎていた日常にあらためて反省しきりでしたね。現代人は有り余る物の中で暮らしていて、つい安心しがちですが、もし持ち物が少なければ工夫もするでしょうし、安易にコンビニやスーパーに駆け込む事も無かったのではと思いますね。普段から物を余り持ち過ぎずに大切にしていればイザ!と言う時にもパニックになる事もないと思います。震災直後の神対応のコンビニとしてセーコーマートが記事にも取り上げられていました。店員たちの自主判断で最後は塩おにぎりを握って販売したそうですが、近所の主婦が「ガスでご飯を炊いた事が無いので教えて欲しい」なんて場合以外、考えて見ればガスさえ使えれば自力で炊飯も可能ですよね。天災時などで慌てふためいて、とんでもない行動になりがちですが、大人として、反省だけでなく冷静に判断した模範的行動を取りたいものですね。喉元過ぎればの例えにならないように。
seto
ガスでご飯は炊けます。石炭や薪ストーブで焚いていたし、自宅はおかゆ焚き鍋あるのでこれでいいねということで
動揺しませんんし、インスタントラーメン10個あるので(さすがに飽きます)大丈夫。人間、無くなると欲しがる
もので一番、食べたかったのは納豆でした。しかし「電気は要らない!」と一度叫んでみたいものです。
自給自足。
今回のブラックアウトでも影響が無かった建物はコージェネレーションでした。C重油ボイラーで蒸気タービンを回す方式や灯油を使うものや、ガスも有りますね。ガスは意外にも地震に強く、今回もガスコージェネレーションの自家発電が大活躍したそうです。新しい創生スクゥエアもガスコージェネレーションで外国人観光客の一時避難所として早速活躍したそうです。今後は北電だけに頼らない自家発電が増えそうです。つまり昔からの自給自足が原点ですね。