レッテル貼りは伝染病かもしれない。
人間はたくさん怠惰なところがあって、自分で考えず、他人の思考や判断を鵜呑みにして、いろいろな現象にレッテルを貼って平気で毎日を生きていることが多い。
庭のアリやバラに止まるハチを見ていて、厳密には複雑な仕組みで動いているのだろうけれど、実にシンプルなそれぞれの生物人生を全うして羨ましく思うときがある。テレビもなく、勉強もなくて、数字のノルマもなく、景気が悪いからといって「最近、花の蜜を取できるこの団地も高齢化が進んで、蜜の採取できる花々が50%になった。したがって、ハチの半分は要らない」と女王蜂から言われることもない。
話題がすぐに私はアリやハチに行くが、なまじ言葉や言語を持ち、大きな大脳に言語野を抱え込んでいながら、自分で考えて、自分で判断して行動することをいつのまにか忘れてしまっているのではないか。そう思う。しかし、考えることは記憶の蓄積があって、またどこからか思い出す働きであって、考える癖をつけないと自動運動(ロボット的な動き・判断)になりがちである。
同じ現象を見ていても、反対の結論を出したり、錯覚がある。デモで殴り合いが始まったとする。カメラの視線が殴られたほうから写すと被害を受ける映像になるし、実はその前に、画面には出ないが殴った側が相当に殴られていた現実があったとすればどうだろうか?さらにこれが学生と機動隊という組み合わせなら、見る側が学生の場合と取り締まり大好き人間が見た場合で、判断は異なるだろう。報道は、何回も点検してみないとどれが正しいか言えない。ましてやレッテルなんて怖くて貼れないはずだ。
ことは報道ではなくて、他人の評価や性格も、実は判断する側の人間の好き嫌いのレベルから来ているとしたらどうしようもないと、それ以上の追及はできないこともある。そして怖いのは、「一度、思い込みでレッテルを貼られると、それを剥がすのに何十倍も困難」だということで、軽々しく他人をああだこうだと言えない。それも第一次情報から遠く離れて受ける情報弱者が、簡単にテレビや週刊誌の1行、新聞の週刊誌5段広告の見出しを読んで、ばっさり他人を裁く癖ができてしまった(すっかり伝染してしまった)と感じるのは私だけだろうか。それがもう当たり前のような社会の雰囲気を感ずるのである。レッテル貼りの習慣がどんどん減っていくことを願うばかりである。