毎年12月に入ると、1年の終わりが見えて、何とか今年も生きているなあと実感するが、果たしてその先はどうなのかわからない。我が家には5枚の写真、死んだ両親4人と愛犬の写真を飾っている。写真は床の間に置いてあるから、10個の目は居間を向いて、ここで話される夫婦の会話を聞いているような気がときどきするが、彼らがいなければ自分たちがここにいるわけもなく、信心深いほうではないが『なんとかここまで生きてきた』と春めいてくると報告したくなる。そんなとき、『NHK 100分de名著』オルテガ『大衆の反逆』で中島岳志さん執筆(生きている死者の存在)の記事を見つけた。人間は2回死ぬと言われる。1回目は肉体的な死、2回目は思い出す人の記憶から忘れられることである。過去(死者)の力は、伝統とか常識とか日常生活の繰り返しに表現されている。地味だけれど日々の暮らしはそうだ。料理の味付けも母親から伝授されたかもしれない。近所付き合いの知恵も。死んだ人は現実には様々な場面で生きていて、選挙にも死者が参加できれば、現代政治の質の向上に貢献するかもしれない。現実の選挙人より正常な判断をするかもしれないとさえ思う。数の暴力が好きな政治家が地上に跋扈するさまを見ていて『民主主義』っていったい何?と思わずにいられない。独裁政治はすべて正当な選挙や議会制民主主義から生まれることに注意したい。それに歯止めをかける近道は『過去の事例』であったり、過去の政治家の残した言葉であったりするが、そこに思い至らない政治家ならどうしたらよいか?誰か指南をする人はいないか?参議院はいっそう選挙を止めて、歴史家や政治学者、哲学、科学者、医者、法律家、学校の教師経験者、岩手・宮城・福島の県知事兼務など多少、外部や歴史に詳しい人たちの良識の府に復活してはどうなのか?元々、『良識の府』が参議院の役割で任期を6年にしたのもじっくり考える人たちの院にするためであった。わからなくなったら、スタート地点に戻る。迷路に入ったら戻る。初心に還る。『俺が、俺が、私は、私は』ではなくて、あなたをまず優先して生きていける余裕やイマジネーションが欲しいものである。お先にどうぞと言える人生でありたいものである。

  1. 僕も含めて家族は無信心ばかりですが、それでも僕は未だ家族が寝ている間に毎朝仏壇の花に水をやり、炊き立てご飯を備えて念仏?みたいに亡くなった人の名を呼んでいます。祖父や祖母から始まって家族や親せきと近所づきあいのあった方々や親しかった友人の名前です。もちろん一人一人の生前の顔を思い出しているのですが、二人だけ会った事が無い?従弟と僕が生まれる前に無くなった兄の顔だけは思い出す事はできません。我が家で飼っていた猫の親子三匹と東京の猫一匹の遺影?(L版写真)も仏壇内に飾っていますから、彼ら彼女らの名前も呼びます。動物を仏壇の中に入れてはいけないと言われますが、僕は猫たちも家族だと思っていましたから他人様の常識には頑として耳を貸しません。歳の差が親子ほどの長男も他界して末っ子の僕が仏壇を引き受けてからは毎朝お経こそあげられませんが、念仏のように呟いて拝んでいます。中に有るのは幼児期に無くなった兄の位牌と浄土真宗特有の小さな掛け軸と阿弥陀如来の掛け軸くらいですが普段は扉を閉めているのですが不思議な空間でもあります。毎朝タイムスリップするような気持になります。どうやら僕にも祖父の血が流れているようです。

    • 私は仏壇はないですが、写真あればOKです。扉がないので、いつもこちらを見てます。田舎まんじゅうが好きなので4個置いて、後に食べてます。

  2. 第二の死とはなかなか面白い発想ですね。記憶から消えるとは、つまりは思い出す人自身が第一の死で亡くなるか、記憶障害で忘れてしまう事なのですね。霊などと表現されていた部分なのでしょうね。昔からの言い伝えも科学的では無いと全否定されがちですが、意外に的をも得ていて、まんざらでも無い気がしますね。母の葬儀で火葬場に向かうマイクロバスの中で背中に重い物を感じたり、睡眠中に金縛りに遭ったり、不思議な体験は事実です。いろんな人の記憶を忘れて居ないと言う事は我々は未だ第一の死さえ迎えて居ないわけで、この先、迎えたとしても、いろいろな人の記憶に残れば、第二も第三もの人生があるとも言えますね。

    • 第二の死ですが、私にも兄にも妹にも親を思い出す瞬間ってあると思うのです。私の娘にも記憶は残っていますからしばらくは記憶の中で彼らは生きていきます。先日、焼き場で自分の棺桶が焼かれる夢を見ました。それを高いところから自分が見ているのです。『たくさんの死者に囲まれている』というブログを書いた日でした。みなさん、一番囲まれたい死者は誰?と聞かれたら『福澤諭吉』ですかね。床下にある諭吉さん、新円になるから甕の中、金庫の中から続々世の中に出てくるかもしれませんね。新円に換えるため。しかし、そのタイミングで財産捕捉されます。紙切れなんですがね。

  3. いくら励んでも、いくら努力しても、いくら褒めたたえられても、死んでしまえば皆同じで跡形もなく消える運命ですが、人は記憶に残そうとお墓に故人の名を刻んだり、石碑を建立したりと、死後も美化しようとします。多少嫌われていても余程の極悪非道以外は死んでしまえば「あの人はいい人だったね」と死人を悪く言う人は余りいませんね。たとえ政治家で汚職大事件で世間を騒がせて投獄された人でも死後は立派なシナリオの書籍が飛ぶように売れて居たりしますね。武士は切腹で責任を取る死に方をしましたが、今では罪を部下に擦り付けて自殺にまで追い込みながらも、自分は生き抜く政治家も多いですね。人間一人では立ち向かえない組織の党とか派閥とか言う奴で、数さえ揃えば強行突破法案ばかりですから、国民の意思は蚊帳の外ですね。彼らは、きっといい死に方はしないでしょうがね。記憶にも残したくない人たちですね。

    • ほとんど無名で死んでいくのが大半で、これでいいのですね。有名人や政治家になると、誰も自分を知らないところで歩きたいらしいですよ。ないものねだりの子守歌。一度、大ヒット曲があって芸能人になるとその世界の呪縛に入るようで、可愛そうになるときあります。あの芸能人はいまいずこ?スポーツ選手もいずこへ?薬の世界にはまるのもわかるような気もします。

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