『エーゲ』 記念碑的な1本。
『エーゲ』(立花隆) 2015年3月20日掲載
お陰様で3月18日から始まった「太古につながる生活者の目」というブログが90本目を迎えることになりました。途中から読み始めた読者もいらっしゃるかもしれませんので、3月20日に書いた記事を再録して、原点に帰ろうと思います。2度目の方はスルーして構いません。
前回は、「知の考古学」という雑誌の巻頭言から、この題名の由来について書かせてもらいましたが、今回は、立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。
20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)
「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)
立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。
日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。
*追記・・・ブログ3年目に入り、毎日書き続けているがいつまで続けられるか不安。本屋へ行けば、それぞれの関心どころの著作は並んでいるし、センセーショナルな見出しの週刊誌も、ついつい立ち読みをしてしまう。電車に乗れば、スマホ族がずらりと下を向いてゲームや友人と文字交換。サイバー空間で生きている。ハッカーたちはサイバー戦争を毎秒している。私たちのライフラインに入り込まなければと願うだけだ。写真家土門拳のモノラル写真を見て、貧しいけれど懐かしく思うこのごろである。
坊主の孫。
歴史は人生にも似ていますね。人生は想い出を数えて生きていますが、全て四捨五入で綺麗ごとしか残していません。失敗さえも飾りをつけて美談や冗談に変えてしまう事さえありますね。歴史も全く同じなのは、そんな人間の仕業なのでしょう。数多く戦死した歩兵は土の下へ、その兵士たちを死へ追いやった司令官は石碑など建てられて後世の歴史上の人物などと崇められます。綺麗な物、目立つ事、事実の50%の中から数%だけが残されているのでしょうね。自分の歴史(人生)を辿っても、殆どの事実の記憶は捨てられていますね。自分史を残す方々もいらっしゃいますが、きっと苦労から得た成功事例などが多く列記されているのでしょうね。
seto
人には親がつけてくれた名前があるので、数字では語れませんが、ある本を読んでいて、太平洋戦争での陸・海軍人の死者は約240万人、その7割は餓死で食べ物は、それぞれ行ったところで自分で見つけれと食料の補給(兵站と言いますが)に顧慮せず、精神論ばかりがはびこり、新聞も大本営と同じ発想で部数を伸ばしました。戦地へ行っていまで言う『自己責任』です。現代にかこつければ、自分のことは自分でしなさい、親の面倒も(国の予算が社会保障費はもう赤字だから)それぞれ兄弟たちで、自宅に引き取ってくださいね。お金をたくさん持っている人が入れる施設はあちこちあるので利用してください。極論を言えばそうなります。戦前の兵士といまの国民を見ていて、そんな国の対応(戦前は大本営参謀本部)に変わらないと私は思いますね。派遣やパート労働、仕事のかけもち、引きこもり、もらい過ぎの年金者がいても多くは毎日の暮らしがカツカツ。貧しい庶民は棄民されてる感じが戦前の本を読んでいてしたのでコメントしました。
昔の少年。
汚い物や醜い物に眼を背け、綺麗で美しいものを欲するのは誰しも同じでしょうね。また不味い物は避けて美味しい物を求める事にも似ていますね。難しい事をなるべく避けて、自分に都合の良い簡単な方法を選びたくなるなんて事もありますね。人間は欲深い生き物ですね。誰もが頷くような美談が多いのは、これまでも凄惨な事実から眼を背けてできたヒストリーだからでしょうね。
seto
リアルな現実を見たくないのでしょうか?反射的に目をそむける、条件反射がいつのころからか身についてしまったのでしょう。人間、同じことを何度も何度も繰り返す生きものかもしれません。世界中の国民でいろいろな癖があると江戸時代の富永仲基(なかもと)はいいました。日本は『隠す癖』があると喝破しました。まずいことは隠すです。隠し続けることで、今を過ごして責任を取らない。公表すれば周りに迷惑(先輩や同僚など)をかけるから『隠そう』ですね。これをやると後々、えらい事件に発展します。