医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。(緒方 洪庵)

小学校5年生の国語の教科書(大阪書籍)に司馬遼太郎が『洪庵のたいまつ』という見出しで書いた文章。大阪で適塾を開いたとき、医師である緒方洪庵は塾生の心得として掲げた。この(たいまつ)は受け継がれて後の大村益次郎や福澤諭吉を育てた。司馬さんは『21世紀には自分はいないだろうけれど』21世紀に生きる子供たちへたちへ残した言葉である。

腑分けをするのを検分している絵。

長崎でオランダ語を学び、それを伝えるべく私塾を開いた緒方洪庵。『解体新書』は1774年発刊なので、適塾が開校したのが1838年だから『解体新書』は知っているはず。これを機会に筆者は杉田玄白著『蘭学事始』を読み返してみた。オランダ船の船員に付き添う外科医が持っている人体解剖図が、どうもこれまでの自分たちが読んできた人体図と違う。それを確かめる機会がやってきた。京都出身の50歳の老婦が『骨ケ原』で90歳の老屠によって腑分け(解剖)される。オランダ本の解剖図を実検できると前野良沢、中川淳庵、杉田玄白3人で現場へ駆けつける。『さて、きょうの実験、一々驚き入る。且つこれまで心付かざるは恥ずべきことなり。・・・・医術の基本とすべき吾事の形態の真刑(しんけい)をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来たりしは面目なき次第なり』(岩波文庫28~30p)

ここからオランダ語を漢語に移す苦難の翻訳作業が夜を徹して始まる。現代医学で使われる神経や血液も彼らの造語で、完成するまで『草稿は十一度、年は四年に満ちて、漸くその業を遂げたり』(43p)。杉田玄白が83歳のときに翻訳作業の思い出を大槻玄沢に書いた手紙(文書)が『蘭学事始』である。書かれたのが1815年。しかし、この本は奇跡的に発見されている。杉田家に残っていた1冊が安政2年江戸の大地震で焼失していた。謄写している本もなかったが、幕末に神田孝平が本郷通りを散歩の途中、露天で古びたる写本を見つけてそれが蘭学事始であることがわかって狂喜したとある。

福澤諭吉はこの本を読んで『我々はこれを読む毎に先人の苦心を察し、其の剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはない。』(121p)福澤は自腹を切って、この本の出版を決意する。『今、是を失っては後世子孫我洋学の歴史を知るに由なく、且は先人の千辛万苦して我々後進のためにせられたる其偉業鴻恩を空するものなり』(121p)1冊の本が残るのは奇跡に近いかもしれない。『解体新書』が翻訳されてことしで245年。この仕事をしようと思って集まった人たちは当時の世間では奇人変人と呼ばれていたことを記憶しておきたい。

  1. 野兎の解体すらできなかった僕たちに、人体の解剖など決してできる事ではありませんし、手術の場面のクローズアップなどには目を背けたくなりますね。他人が嫌がる仕事をやり遂げるにはそれなりの覚悟や思想が必要ですね。蘭学に学んだ日本の先人たちは先見の明がありましたね。医学と簡単に言っても、現場は生々しく、決して綺麗ごとでは済まされない事ばかりでしょうね。人命が掛かっている訳で、執刀する医師も手術を受け入れる患者も、お互いが真剣勝負ですね。命がけの仕事とは正にこの事かも知れませんね。

    • 隠されている失敗の手術があって、たくさん殺されているので成功の手術があるのでしょう。解剖された婦人も50歳ばかりの老婦です、理由は『大罪を犯せし者』とだけしか書かれていません。なんでしょうね?こういうところ、私は気になります。最初、解剖担当は『穢多の虎松』で当時腑分けの巧者でしたが、当日体調が悪くてきゅうきょ90歳の老人(超長生き)になったということが原本に書かれてありました。穢多が死刑執行は、ヨーロッパでも全く同じです、社会の中で差別され続けて現代まで及んでいます。部落として残っています。ブログで『死刑執行人の日記』を書きましたよ。16世紀ですが。昔から外科医の社会的な地位は低く、他人の体を傷つける行為は床屋さんのカミソリで皮膚を切り、血を流していました。名残が床屋の赤(動脈)と青(静脈)のサイン塔ですね、ご存じのように。

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