高橋源一郎

読んでほしいブログを載せます。子どものためのホスピス紀行。「101年目の孤独」

高橋源一郎さんの本に、イングランド北部のリース市にあるこどものホスピスを訪ねたドキュメント本を見つけた。NHKのスタッフが同行しているので、ある時期にテレビ放映されたのであろうが、私は見ていない。「マーチン・ハウス」という子供ホスピスだ。それまで、ホスピスは末期がん患者が余生をどう生きるのか、そういう施設、考え方を具現化した施設と思っていた。実際、札幌で最先端のホスピスを持つ院長に昔、取材し執筆したことがあって、また、子供のための難病の病院があるから、そこで治療をしているのだろうぐらいにしか考えていなかったからショックであった。

子供を持てば、一度や二度、この子が死ぬのではないかと高熱や原因不明の夜泣きで、救急病院へ運んだ経験があるはず。子供にとって親は命綱だ。仕事は代替が100%きく。別にあなたが社長でなくても企業は回るのだ。しかし、この子を看るのは親しかいない。子育ては大事業だ。親も命がけなのだ。その子が、余命〇〇年・月と判断された子供たちと親たちが暮らす場所が「マーチン・ハウス」。

この本は4歳の可愛い女の子ベアトリスと高橋源一郎の交流、彼女の両親との会話から成り立っている。生後7か月で脊髄性筋委縮症という遺伝病が発症した。父親アンドリューはフルタイムのベアトリスのために介護生活を選んだ。「パパ、わたし、歩けるようになるの?」「パパ、わたし、死ぬの?」「パパ、死んだらどうなるの?」歩けるかどうかについては「わからない」。死ぬことについては「誰だって死ぬんだよ」死んだらどうなるのについては「どうなると思う?」と聞き返すと「みんな、お姫さまや王子さまになってお城がいっぱいある、きれいなところに住むの」「きみがそう思うなら、きっとそうだと思うよ」。

ホスピス滞在取材を終えて、帰国する直前、高橋源一郎・NHKスタッフはマーチンハウスから車で1時間のベアトリスの自宅に招待される。車いすで自由に動き回れるよう家具は撤去して広いリビングルームだ。ドレスを着てベアトリスがお客様を歓迎してくれた。「いらっしゃい」と。ベアトリスは父親アンドリューに一度だけ「私、死ぬの?」と訊ねた。でもそれは一度だけ。「子どもホスピス」の子どもたちは、よくそんな質問をする。たいていは一度だけ。ホスピスのスタッフは「知りたいことは一度でわかる。それ以上、訊ねることが親を苦しめることを、よく知っているからです」。

この施設はキリスト教会とは関係がない。仏教徒でもイスラム教徒でも対応している。マーチンハウスは、多くの死に臨もうとしている子どもたちとその家族がやってくる。時間と場所を与えるのだ。亡くなった後の対処も、スタッフはまず温かい紅茶をふるまい、親たちの「死」との付き合い方を告げる。亡くなった子供の指や足のプリントを親と一緒にとってあげる。亡くなったら、その子供の写真を壁に貼る。この本の表紙は、その小さな子供たちの顔が虹の中に貼られている。亡くなった子供は1600人を超えている。高橋源一郎さんが「世界中が、ここと同じような場所であったらいいのに」「101年目の孤独」(岩波書店)

  1. 子供が生まれる直前まで「男の子でも女の子でもいいから健康な子供が生まれますように・・・」と、どの親も同じように願う。生まれてくる子供達に責任はないのに障害を持って生まれてくる子も大勢いる。僕の親戚や友人の子供にもいるから決して他人事ではない。余命を告げられたら大人でも絶えられないだろうに純粋無垢な子供たちの心は・・・と考えると心が痛む。子供と一緒に生きる親達は数百倍も数千倍も心を痛めているに違いない。自分の孫たちを見ていると、しょっちゅう肩の骨を折っただの、額を打って大怪我しただのと、大人たちに迷惑ばかり掛け、学校では先生を手こずらせて、とんでもない通信簿を貰ってくる。命と向き合う彼ら彼女らから比べれば、こんなバカ孫たちでも、まだ幸せなのだと思えてくる。

    • この本も、実は作家自身の次男坊が、そういう危機的な症状を呈して、医師から呼ばれて、障害を背負う子供になる可能性を示唆されて煩悶する文章が
      前段にあって、そのときの親の心境が色濃く反映されています。ダウン症の子供たちを訪ねる章もあります。死は年齢に関係ないですからね。ある日突然
      ですから。

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