ニセコの風にも吹かれてみた。
昨日は、余市の風に吹かれ、24日はニセコの風に吹かれた。どうしようもない暑い天気が連日続き、久しぶりのニセコだ。ここは父の故郷で昔は狩太(カリブト)と言って、有名な有島武郎男爵が不在地主で、広い土地を持っていたが、小作人へ開放し、自らは自死した。ニセコという日本で最初のカタカナ駅にして話題になったこと、羊蹄山という絶景が広がること、世界中のスキーヤーが絶賛する雪質のスキー場がたくさんあること、豊富な湯量の温泉がニセコエリヤに散在すること、このあたりで育つ人間はどうも反骨人も多そうで、昔(今も)から権力を嫌う風土では信州に似ているかもしれない。信濃毎日(桐生悠々)や自由民権運動も信州が先導を切っていた時代もあったし。厳しい積雪との戦いがそういう性格を醸成したのかもしれない。私の父も偏屈であった。私の宿泊したホテルはヒラフもホテルであったが、オーストラリア人の別荘が軒並みで、テニスをしたり、野外バーベキューを楽しんでる。アメリカンスクールもあるということで、ニセコに開設されるわけは外国人の人口増加だ。ここに水資源を求める中国資本も虎視眈々だ。富士山を半分の高さにすると羊蹄山だ。山の周りは冷たい水がわき出ている。いろんな造形芸術家もオブジェを町々に置いてある。
以前はジャガイモやビート畑がいまやミルク工房、チーズ工房、アウトドアのラフティングの教室も多い。スノボ大好きな大阪人は冬だけ開くお好み焼き屋もあるらしい。ホテルの従業員も若者が多くてホッとした。若者が簡単に都会へ出てしまう町や村で、公務員以外で雇用が保たれると言うこと、移住者が多いということは、その街の5年、10年先の未来が開けるような気がするからだ。「わ」ナンバーの車「れ」ナンバーの車、キャンピングカーが羊蹄山を眺めながら走る姿を見て、亡き父を思っていた。貧しい親父の少年時代を聞いていたので、、毎日歩くスキーで学校へ通ってたからね。その姿を羊蹄山は黙ってみていたんだ。きょうあなたのひ孫を初めて連れてきました。草原で転がって遊んでいます。羊蹄山は彼女も見てくれてます。
昔の少年
北海道に来て驚いたのは広大な土地と真っ直ぐな道路だった。夏にクルマで走ると「逃げ水」がまるで砂漠の蜃気楼のように現れるのにさえ感動した。行くところ全てが新鮮でほとんど行きつくして地元の人より北海道を知っているとさえ言われたが、最近は遠出をしなくなったので、久しぶりに仕事でニセコのホテルを訪問したがニセコはすっかり変わっていた。ここ数年の内に大きな変化に驚く。中国系の資本でショッピング・モールの工事が進んでいたり、お洒落なお店が並んでいたり、外国か?と錯覚するほどだ。僕が最初に感動したように外国人たちも感動したからこそ住みついたり季節を楽しみに訪問したりするのだろう。澄川に住んでいた頃、両親とも大学教授の隣の大学生も、夏休み中に僕の家によく遊びに来たが、卒業後アメリカに行ったあと今はニセコのホテル勤務と聞いている。アメリカでの暮らしで語学が身に付いて、それもふるさと北海道の高級リゾート・ホテルで彼が昔から望んでいた「ホテルマン」になったようだ。学生時代は遊び半分に黒子のアルバイトなどしながら東京暮らしをしていたはずの、両親に心配かけた若者も、今ではしっかり自立しているようだ。