友人と雑談をしていたら、『相対的剥奪感とストレス増加と病気の発生』の話になった。筆者がはじめて聞く言葉なので調べてみた。仏教研究者まで書いていた。自分が準拠する集団(教室、団地、会社、趣味やサークル、大学、ファンクラブなど)で身近であるがゆえに目の前の人と比べて競争状態に入る心理を言うらしい。そして現代流行りの『マウントごっこ』に入る。

わかりやすいのは一流企業に勤め、どこからみても高い給与と福利厚生で恵まれた暮らしをしているのに、昼飯になれば人事話ばかりでストレスを溜めて病気を誘発したり、スマホで『自慢ごっこ』で疲れてしまったり、そのストレスからうつ病や内臓疾患を併発するケースも多く、長生き社会とはいえ、健康な心理状態・生活習慣にはなっていないと分析される。

友人の語る例で面白かったのは、高価格マンションに住む住人の間で、部屋の中に入ると、沢山の書籍を壁一面にきれいに置いてある。しかし、よく見ると『他人に見せるための書籍だ』ということが判明する(本好きならすぐにわかる)。高級住宅街の部屋も、入ると北欧デザインの使わないペチカが置いてあったり、それぞれ生きてる空間・準拠する集団の中で気苦労をしながら、ときにお金を使い日々人目を気にしながら生きているストレスを『相対的剥奪感』というのかもしれない。

小学生の孫を見ていても、髪につけるおしゃれグッズに気配りしている。誰々ちゃんは何色、私もこれが欲しいと。もちろんその母親族も然りである。東京ディズニーに何回行った、大阪USJに何度行った話が話題になる。これがセレブ集団になるとハワイへ行った、ロスのユニバーサルスタジオへ行くという話になる。そういうひとつひとつの話がグサグサと胸と頭に突き刺さる状態を『相対的剥奪感』。絶対的に遠い話はどうでもいいのである。手の届かないレベルは圏外になる。身近な人の身近な具体的な出来事と物にチクチクする。新型うつ病の発症はこのあたりにあるかもしれない。

スマホについてもどの機種、『やっぱりアップルだよね』に『そうだね』と相槌。慌てて『母さん、私も新しいスマホ欲しい』とおねだり。しかし、この生き方はエンドレスである。なぜなら、自分自身、時間の経過とともに準拠集団がどんどん変わっていくからである。最後は老人ホームか介護施設である。そこでもやはり『相対的剥奪感』があるとある学者の論文にあったが、筆者は何も存命年数の少ない老人を長い間観察して、数量化するより、学者の準拠する大学の先生方や学生たちを観察したほうが世のため人のためになるような気がする。

亡き母の遺言『この社会は妬み社会、他人が羨ましがるものは持つな』。ストレスをためないマイペースな人生提案である。人は人、自分は自分。若いときからこれを貫きとおすのは並大抵ではないなともこの年齢になって思う。

絶対的ではなく相対的な剥奪感なので、背伸びで手が届くあたりが悩ましいところである。それを後ろ押しするのがお金である。

  1. 幸か?不幸か?これまで有り余るお金も無かったので、マイペースで、背伸びの仕様もありませんでした。むしろカミさんの方が付き合いが広く、親戚だ、友達だ、仕事先だ、カルチャーだ、と群れる事が多いですね。当然ながら、少なくても同レベル程度の競争は有って身近な海外へも何度か行っていましたし、同じ趣味同士で本州くんだりまでコンサートなどにも何度か行ったりしていました。でも、不思議な事に、女性たちに有りがちなブランドの自慢ごっこは有りません。実際、自慢の種になるであろう宝石貴金属やファッションブランドなどは何も持っていないのです。そこで考えられるのは、集団に参加するに当たって、あらかじめリサーチ期間があって、自分と同じような趣味や考え方も同レベルの集団に限って所属しているのでしょうね。そのほうが精神的にもリラックスできて長続きするでしょうから。上を見ればキリが無く、下を見てもキリがありません。等身大などと言う流行語がありましたが、昔から身の丈に合った考えや行動をしていれば心が病む事も無いのでしょうね。

    • 活発な奥様ですね。こちらは専業主婦できてるので、OL時代の仲間や短大時代の仲良しと電話で話す程度で静かな日々を送って、まったくブランド物は買える余裕もなく、娘の使い古しをもらってます。近所の奥様達と距離を取りながら付き合ってます。私も妻も超地味な親に育てられてますから、派手さや目立つことを嫌います。縁の下が似合う人生です。相対的なはく奪感って実はあんまり、昔の少年さん同様、感じていないんですが、いくつかの職場を転々としてたくさんの人と会話をしている中で、十分、幸せなのに何を不満に思ってるのだろうという人が山のようにいました。スタートが恵まれていた人ほどそういう感情に捕らわれる人が多いです。

  2. 小学校6年になった孫の女児はお洒落競争真っただ中ですね。長い休校で持て余している事もあって、近所の友達に会うだけでも化粧したりマニキュアしたり最近ではネイルも始めたり、着るものにもこだわっています。これらの情報はすべてスマホから入手したもののようです。一方、中学2年の男児はスポーツブランドものばかり好んで着ます。子供たちの間でさえ自然と競争力が働いて他人の目を気にして居る様子です。昔の子供の様に青ッパナ垂れたような子供の姿は見かけなくなりました。むしろ、子供たちのほうが、親たちよりも人目を気にする時代になりました。子供社会にも格差が生まれなければ良いのですが。

    • 私の孫8歳も、おしゃれなファッションで決めた写真を送ってきます。将来はネールアーティストだそうです。なんでも可愛い・・・が大好きですね。私の子供のころは親父の着古したジxヤンパーや兄貴のおさがりを着て、少しでもおしゃれすると「やわな奴」とバカにしたものです。そんな女々しい真似するなよという合図でした。子供同士ならスマホの機種や持ってるゲームソフトなど競いあうでしょうが、スマホよりパソコンを小さなころから学ばせるほうが将来のオンライン授業についていけるスキルを持つのにいいかもしれません。そうすると格差を減らすことにもつながると思いますが。

  3. 学習塾などは、その典型ですね。同じ空間と時間のなかで競争心を煽り、やる気を起こさせるための環境を作っていますね。成績をつける事で更に競争心(見栄)を養い、しいては、学習塾ビジネスの為にも。合格率で実績を積み、熟のレベルアップをするのが目的なのでしょうね。考えてみれば、それも、つまりは、沢山有る学習塾同士の間での「競争状態」でもある訳ですね。

    • 絶対評価にしたほうが教える側も教えられる側も楽だと思うし、子供のメンタル面で希望や未来を志向させるのにいいと思います。偏差値が出てきて、自分はこの集団でどこに位置するかを可視的にし始めてから、競争が激化して、あらゆるスポーツや勉強ではびこってます。落ちこぼれでもいい仕事をする人は多い。学習塾は必要なんでしょうか?中途半端な受験のプロみたいな顔をして、生徒から人気が出るよう教えないと給与が下がるみたいな「市場原理」にさらされて、塾経営者から奴隷のごとき扱いを受けて、子供を商品化(どこに何人入った?)していく。良き教師から良き弟子ができる、生徒ができるという初心に帰らないとね。人格まで伝わるような。学校、企業でも、地域社会でも必要な人たちです。

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