コロナというカタカナを最初に書いたのが2月ころで『武漢ウィルス』と書いていた。自宅の石油ストーブがCORONAなので、父親がCORONA商品のファンでもあって、会社の業績に悪い影響なければと心配する余裕もあったが、さっぽろ雪まつりに中国人観光客がどっと押し寄せ、雪まつり関係者からぼつぼつ新型コロナ感染者が出て、以降、感染者数地図で北海道は赤く染められた。日本地図で色塗りされると全国一の面積がある北海道(四国と九州+山口県あたりの合計面積)だから、地図だけ見ると危険地帯の印象を与える。実際は札幌圏だけなので、空港から札幌までのエリアを小さく塗るだけで良かった。

新聞・テレビの報道にきめ細かさがなくて、すべて東京から見たら『北海道一律』。一事が万事、何でも塗りつぶす。そして都市間移動の制限も始まった。私のアルバイト先は『人がいないと倒産する』ので、札幌への不要不急の通勤制限を無視して通い続けた。3月4月は電車はガラガラ、気味が悪いほど静かで本をよく読めた。札幌駅に降り立てばゴーストウンへようこそ。出社しても『あの薬局にマスクがあった。セブンには何時にマスク入るみたいだ。通販でアルコール消毒液2本買っておこうか』などマスク越しの会話が始まる。『ところでこの会社から感染者が出たらどうなるの』という話も出る。『ウーン、一時閉鎖して消毒かな』。『しかし、このビル全体の消毒をしないといけないので、ビル閉鎖に追い込まれる』そう考えると憂鬱さが増す。

私の仕事は営業なので、公共事業体への訪問も『訪問はご勘弁願いたい』と断られる日々が続いた。意外に思うかもしれながいが、札幌市民は都心に来る恐怖や不安を持っていたが、感染者はむしろ郊外の病院や老健施設が多く、中心部では小さなクラスターが出たが、すぐに収束した。『お茶での飲まない?』と電話しても『現在の状況では町部に出たくない』『妻から外出禁止令が出ている、勘弁』という返事が多かった。当時の札幌市のPCR検査数を調べると1日最大12件だけ。民間の検査機関はゼロであった。12件の検査数が1か月以上続いた。

なぜこうなるのか?新型コロナウィルスは危険度ランクでいくと3に該当する。危険度4がペストやエボラだ。危険度3までは、粘膜から採取したものを検査機関へ送るために、訓練を受けた技師が密閉性の高い容器に漏れないよう慎重に入れる必要が法令で決められている。さらに航空便での輸送も禁じられていたから本州の検査機関へも送れないというジレンマを抱えていた。そこで奥の手で、札幌市は市内から出ないよう、札幌市内へは来ないよう宣言してPCR検査の仕事が多くならぬよう道民に呼びかけたのである。197万人の札幌市で12件の検査数なら他都市は推して知るべし。医師からは新型コロナの危険度を2に下げてもらわないとPCR検査を増やせないという苦情も出ていた。

さらに診断に欠かせないのが肺炎を見立てる呼吸器内科の医師だ。絶対数が足りず、北大や札医大の医師が全道に出張したりヘロヘロになっていた。メディアでは感染症の医師が前面に出てしゃべっているが、支えていたのは呼吸器内科の医師たちであったことは覚えておいてほしい。

 

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