家系図つくり、突然の中止。

先日、亡くなった母の弟から留守電が入っていた。親戚からの突然の電話は経験的に訃報に決まっている。また誰かが亡くなったのかと喪服や香典のあれこれを考えながら、電話をした。私は次男ではあるが北海道にいるのは3人兄弟で私だけ。父方と母方の親戚の葬儀についてはすべて、私が窓口。訃報はすべて私に来る。『突然だけど、一族の家系図をつくることになって6代目まで調べることになった。母方の先祖は阿波の国から350人の一行が明治初めに小樽に上陸。温暖な気候で平らな土地である仁木と余市に住みだしたのが始まりだと』教えてくれた。祖母が安崎姓なので、生前、母が名門氏族を自慢するような口調で『安崎、安崎』と唱えていたのを思い出した。


しかし、考えてみると、徳島の地域で豊かな暮らしができれば何もわざわざ『北の果てに移住をする必然性はないわけで』昔から筆者は『矛盾していることを言うものだ』と鼻であしらっていた。当時の新聞を調べてみると、不作続きで北海道への移住を勧めるパンフやポスターが出てきて、説明会も開催されて、広い大地を提供しますよと夢を語っていた。安崎一族もそういう食えない士族だったのだろうと推測する。明治政府もロシアとの国境警備と開拓を兼ねて大々的に移住者を、貧しい藩を中心に政策化していたのである。


考えてみると、南米やハワイへ移住する説明会も規模は壮大ではあるが、耕す土地が狭く貧しい士族や農民たち、野心家の人たちを国家は騙して、棄民政策をやっていた。満州への開拓団も敗戦と同時にたくさんの子供たちが親に捨てられ、中国人の農民に拾われて育てられたことは記憶に新しい。国家は都合が悪くなると平気で国民を捨てることは覚えておいていい事柄だ。養えなくなると口減らしをするのである。この現象は日本に限らない。役人や官僚は不思議と移住しない。安全地帯を確保する。


家系図の話に戻せば、私も電話をもらい(私で5代目、子供で6代目)氏名くらいは教えようと、兄へも電話して娘たちの新姓を教えることにして『後日、紙に書いて郵送します』と電話を切った。ところが3日後、『家系図づくりは中止になった』旨の電話が入った。なぜ、いまごろ家系図中止なのか、それが悪用されないとも限らないし、誰かがどこかでストップをかけたのであろうと思う。


NHKで有名人の先祖やルーツを調べる番組があって、それに影響を受けた歴史好きの人が突然思いついたのか、前後の事情は不明である。私は父方の先祖も徳島の鳴門の渦潮が見える村(ムヤ町)で石工職人であったことも知っていて、いつか生きている間に徳島を訪ねてみたい夢は個人的に持っていた。偶然,母方も徳島であった。


ただ、このルーツ探しは(差別感情の醸成を増幅させる意味もある)。近畿地方の住民の裏帳簿(生まれによって部落民かどうか特定する習慣)の存在をも想起させる。聖書の中で●●は●●の子供で、その子供は●●と●●の二人の子供を設けて、さらにさらに延々と子々孫々を列記する習慣はキリスト教世界にはある。古事記や日本書紀にも神々のルーツや先祖の名前が書かれる。アフリカでも国より部族が最優先で(そのための部族間の殺戮が資源独占志向とともに進行している)あることを考えると、人工的な国境や国と言う概念がいかに新しい考え方かがわかる。部族観念、日本では士族や藩意識のほうが本州では強いかもしれない。北海道が住みやすい背景に気候や大木を切り倒して運び、切り株を掘り起こして畑を作る作業を共同でしないと餓死する恐怖があるから連帯をしてきた。


それにしてもルーツは北海道民は本州各県や朝鮮や中国が多い。そして明治開拓は囚人の力もある。本当の犯罪者や自由民権運動をした自由人も肉体労働で道路つくりや鉱業に従事、死んだ人も多いことを忘れてはいけない。今度できた『北海道博物館』にはこの部分をずいぶん丁寧に資料として展示していた。

  1. 350人の入植団なら、故郷の食い詰め者の集団ではないと思います。地元で大災害が起こったというのでなければ、人減らしをして、わざわざ経済力を減らす理由がありません。明治期の移民は、開拓地での収益を藩に送るのが目的だったので、家老や作事奉行、農夫頭など、能力の高い人物を送り出してました。開拓地に到着して木を何本か切り倒したとしても、その日の寝所も翌日以降の食事も、誰かが用意してくれてないと、即餓死か凍死です。開拓地で収穫が上がるまで、何年間かは旧藩など、誰かが衣食住すべてを蝦夷地に送らなければならないので、一大投資事業だったはずです。

    • 池澤夏樹の(静かな大地)を読んだら,静内に入植した淡路藩のストーりーでした。まず先遣隊が日高に来て、準備(場所や食料、アイヌの様子)をしつつ待ちます。淡路島から太平洋に沿って,船が三隻日高に向かい、1隻は遭難して全員亡くなる事件も発生します。馬を使いこなすアイヌもいて淡路藩の実力者は馬を習い,牧場つくりを発想して,今日の日高の馬産地を作ったと書かれていました。そこに目をつけて馬を飼う商人もやってきたり,道庁も乗り出したりします。JRAがあるのもそうした淡路藩主たち、移住者のたゆまぬ仕事の成果があったればこそです。

  2. ルーツは追わないようにしています。せいぜい両親の親たち、私の祖父母程度しか知りません。なぜなら、苗字で大体の想像がつくからです。苗字に「田」とか「山」とかつきますから、ルーツは農家か林業に決まっています。ルーツは武家だと威張っていた前前々前職の上司の苗字には「蔦」がついていました。ルーツのせいか?彼は「何様?」なのか?威張っていました。現代にルーツが武家だとか?何の関係もないですからね。

    • 武士も元は農民で同じですよ。貴族だけは威張ってました。現代でもいます。ルーツでいくとほぼすべてアフリカから出てますから,この辺でまとまれば人類同じになりますね。

  3. ルーツと言えば、私の父方の祖父は坊さんでした。ですが寺は有りません。庄屋兼伴僧でしたから、母屋は村の人たちを集める事ができる40畳程の大広間と巨大な仏壇があり、本寺のお坊さんが泊まるトイレ付の専用部屋までありました。また本寺のお坊さんが京都の本山に行っている間は祖父が本寺に泊まり、本寺の留守を預かりお経をあげていました。祖父は坊さんでありながら、米や野菜を作る百姓でもあり、炭焼きもしたり、秋には柿をもいで干し柿を作ったりと、大忙しでした。坊さん役はほとんど無償ボランティアで、大仏壇の大広間も、本寺のお坊さんの泊まる部屋も、大きな囲炉裏で村人達に振舞う精進料理も、すべて無償提供ですから、祖父の懐の大きさには感心します。そんな、村の寺代わりだった大きな母屋もすっかり壊されて、今では跡形もなくなりました。私の父も、父の弟のおじさん達も、坊さんを継がなかったのです。時代推移を考えれば、それも当然かも知れませんね。極論ですが、例えば、武家の跡継ぎなんて言っても、今更二本差しの武士に成れるわけがありませんからね。

    • おじいさんの自宅が寺代わりの役目を果たしていたおかげで助かった村民が多かったと思うし、本山もずるい見方ですが、安上がりにお寺の維持ができたはずですね。おじいさんの徳が子孫の生き方にもいい影響を残していると思います。隔世遺伝もあるので誰かが継いでるかもしれません。坊主の孫さんに引き継がれているのではと私は推理するのですが・・・・。

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