金持ちのほうが物を盗む。(文明が不幸をもたらす)クリストファー・ライアン
アメリカの心理学者ケルトナーとピフが富裕な治験者と貧しい人に次の実験をした。実験室の入り口にお菓子の入った容器を置き、「残ったお菓子は近くの学校の生徒たちに贈られます」という注意書きを添えておいた。すると、金持ちの方が子供たちに与えるお菓子を盗む割合が高かった。さらにニューヨークの精神医学研究所の研究員たちが、43,000人を調査したところ、金持ちの方が貧しい人より支払いを済ませていない商品を万引きすることが多かった。金持ちが法律上の罰則について心配していない(保釈金をすぐ払える、弁護士がいる)ことを示していると。(同著198p)
日本でも万引きがレジ袋が廃止され多くなったとニュースになるが、ほとんどが生活苦だけの観点から、テレビ特番で放映されるが、アメリカの現象を見ていると案外、富裕層の万引きが多いかもしれないと思うわけで調査する必要もありかなと思う。タックスヘイブンを利用して自分が所属する国への税金逃れをしているたくさんの富裕層は、形を変えた泥棒といえるかもしれない。
考えてみると、ヨーロッパの貴族やイギリス中流階層も領民や農民・労働者から最低の暮らしを保証して、アガリを盗む暮らしをしていたと思えば、昔も今も変わらないといえば言える。なんだか悲しいような話だが、長い会社生活を送って育ちも性格も違うたくさんの人を見て、また我が身を振り返ってつくづく貧乏人に優しいのは貧乏人ではないかと実感する。私の世代はほぼ貧乏を毎日の暮らしの実感としてあるが、1970年代以降の子どもたちはどうだろうか?
貧乏を知らないことがかえって彼らの他人への思いやり度を止めているのではと危惧する。人間が幸福になるための手段としてのお金が、お金を溜めることが幸福につながるだろうと倒錯してしまった。数少ないお金持ちの知人を見ていると、友人がたくさん離れていっている。お金の使い方に感動やなるほど考えた使い方だねとか尊敬できる生き方が全然ないからだ。『お金はある意味で社会からの預かりもの』かもしれなくて、棺桶に自ら入るときにそれがわかる。賢いお金の使い方に『社会からの預かりもの』感覚が生きていれば変わる気がするがどうだろうか?あなたの周りにそういう尊敬する人がいるかどうかは、後々の人生で大きな影響を与えると思う。金持ちは2世代3世代で事業で稼いだか土地成り金や不動産でのアパート経営者が多い。インサイダー取引者もいる。共通は隠し事があるようで暗い。宝くじにでもあたってテレビ塔から1億円でも投げたらどんなに気持ちがいいだろうと想像する。
貧乏大家族。
お金持ちに成りあがる条件は「第一にケチである事」ですね。綺麗な言い方に替えれば「ムダなお金は一円たりとも使わない!」でしょうか。しかし同じムダでも貧乏人の我々とは全く感覚が違いますね。我々貧乏人は、ともすれば自分の貧しさを忘れて、直ぐに相手の事を思いやったり、気の毒がったり、同情心を持ったり、何かと世話を焼いたりと、自分の行動体裁を大事にしてしまいますが、ケチな人は何処までもケチが身に就いていて、体裁などお構いなし、世間体などよりも、先ずは「自分に得か?それとも損か?」の考えを優先しているようです。それだけでなく、とぼけた振りも得意技ですね。人を見て、こいつはお人好しだなと目星をつけて、物を借りるのです。そして催促するまで返しません。つまり貸した事を忘れさせる事を計算に入れているのです。一方、貸した貧乏人はと言えば、のんき者で、相手は金持ちだからと頭から信用してしまいますから催促さえも忘れるのです。さらには貧乏人の癖に「あんな、はした金なんて、どうでもいい」とか「あんな物は大した価値も無いから」とあきらめたり、終いには忘れるなど金品に対して無頓着過ぎるから、お金持ちに簡単に利用されやすいのでしょうね。
seto
確かに私の周りの金持ちもドが付くほどケチでした。たった200円か300円の駐車券を欲しいと電話までくるし、スキー場の1日リフト券が1000円安い券を福利厚生で扱っていたので5セット買っておいてくれとか、とにかく得することならなんでも利用する癖がしみ込んだ人でした。家には1000万円の時計があるんですよ。バランスが悪い人でした。相手の時間や気苦労を盗む人でした。
今でも広告マン。
お金持ちにも、いろいろあるでしょうが、私の知っている小金持ちの場合は、元々は超貧乏でした。まだお互いに若い頃の或る日、何かの拍子に、彼の家に行きました。中には入りませんでしたが、殆ど掘っ立て小屋のような家でした。玄関らしきところにムシロが垂れ下げてあって、果たして家族で此処に寝泊まりしているのだろうか?と疑うほどでした。その後、地元の広告代理店に勤めて本人の暮らしも安定したのでしょうが、彼のケチは筋金入りで外部の私の耳にも届く程でした。毎日、昼は立くい蕎麦でしのぎ、社内で配るお土産のお貸しは両ポケットに詰め込み、貰いタバコは一本吸って二本を両耳に挟んで、街頭で知り合いに会えば「お茶しょう!」と誘っておきながら驕らせた挙句「給料が安くて困った困った」の連発!そして千円、二千円と寸借。その被害には私も数度逢いましたが、返す気など最初から全くありませんでした。そんな彼は今では、土地成金でアパート数軒の大家です。当時、小金を貯め込んで安い土地を買いこんでいたのでしょうね。お金は貯めた代わりに誰も寄り付かなくなりましたね。そんな或る日、札幌駅付近で偶然すれ違いざまに遭った時には「俺は公園の設計プランナーだけど、まだ広告の仕事なんかやっているのか?」と見下すようなセリフを吐いて消えて行きました。
seto
可哀そうな人ですね。友人もお金で買えると思ってるか、友人はマネーなんでしょう。いずれそれが幻想だということがわかるでしょう。寝たきりになると。そして遺産争いを未来に残す図式です。いい貧乏をとそこそこな暮らしで、良き隣人と暮らせたらサイコーな幸せだと思いますがね。
貧乏暇なし年中薄給。
1億が億万長者の時代から、今では10億以上でも無ければ億万長者とは言わないのでしょうね。宝くじなども盛んに10億円を強調していますからね。でも実際に手にしたら?どんな行動に出るでしょうね。なんて要らない、あり得ない心配をしてしまうのは貧乏人の証拠ですね。第一、せいぜい100万から500万円の札束しか触った事が有りませんからね。それも会社の資本金や自宅を売った時の手付金程度ですから、右から左へ直ぐに消えてしまいましたね。そこで考えたのが、もしも宝くじなどで大金を射止めた時にマゴマゴしない為の一覧表をエクセルで作っていつも内ポケットに畳んで入れて置く事です。実際にPCのデスクトップにも「MOSIKASITE」とファイル名を付けて保存しています。要するに使い道をどうするか迷わないための一覧表です。でも貯めるのではなく、使う算段ばかりの一覧表も、考えてみれば空しい貧乏人の性ですね。
seto
使うのが一番だと思いますよ。父が20年間、買い続けた宝くじのヤマが遺品の中から出てきました。1億円当選したら私は3000万円もるらうことになってました。こども3人同額で父は1000万円でいいよいう話でした。空くじの再度の抽選会があれば当選したかもしれませんが、胴元の国の詐欺ですね、これ。それより近所の寺や神社で富くじを開放するといいと思います。せいぜい限度を500人参加にすれば、最高当選10万円でたのしめるとおもいます。主催は地域の信用金庫で十分。貧乏人に優しいくじです。
鼠爺。
現代版「鼠小僧」でもやって見たいものですね。でも金持ちから盗むのは犯罪ですから気が引けますね。犯罪にならないお金があれば、ぜひやって見たいものです。困っている人たちを助ける事は気持ちいいでしょうね。えっ?今は、私も困っている一人ですけどね。それも「小僧」でも無い高齢者ですけどね。
seto
鼠小僧のテレビドラマを全局作ると面白いですね。泥棒は国会議員と霞が関と電力会社、各種公務員など税金にたむろする、また権力を背景に民間にたかる蛆虫たちですが、こんなに最低の政治家集団になってしまったのは戦後初めてではないでしょうか?自分の言葉を持たず(もともと無い)、勉強しない(勉強嫌い)、丁寧に人の話を聞く(親分の話だけ繰り返せばいい)、選挙民の声を聴きに行く(コロナで帰れないのをいいことに毎日こそこそ税金で会食)。同じ国民とは思えません。戦中なら非国民の政治家集団で、全員市中引き回しの刑です。