6歳から26歳まで学校に囲まれ、27歳から65歳まで会社に所属して、いわゆる勉強といわゆる仕事をしてきて、正直思うのは、学校と職場も考えてみると子供・大人の引きこもりの場所ではないのかという率直な感想である。男女に関係なく。もちろん生活の資を稼ぐため、毎日通勤と通学をしているわけだが、ココロ(精神)の置き所として考えると、自分のデスク前は、自宅のデスク前とどこが違うかといえば、周りに同じ所属する同僚(同級生)という他人がたくさんいる。『引きこもり』という言葉遣いが、違うので混乱する人もいるかと思うが、自宅でブログを書いている自分と会社で何かをパソコンで打ちこんでいる自分で大した心のありようは変わらないことに気づいて書いた次第だ。どこかで自分を誤魔化して生きている気がしてきたのである。自宅でスーツは着ないから、ひょっとしてこのスーツや学校の制服に謎が隠されているのかもしれない。自宅の外と内という勝手な区別をするから、そういう偏見をどこかで植えつけられてきたが、実は内も外もないと考えてみてはどうだろうか。内は外で、外は内でもあると考えると氷解することはないだろうか。それは家族をも他人と考える発想で、外の人間は家族として遇せることでもある。他人とフレンドリーな関係にもすっと入れるわけだ。なぜなら外の人間は内の人間でもあるからだ。なぜ、こんな複雑な思考が出るかといえば、家族間の人間関係が他人関係以上に悪化している気がするので、ここはいったん突き放して外から家族を(自分を含めて)見直しをかけることをしてもいいのではないか、そう思う。違うものが見えてくると思う。私の親戚に元学校の教師が多いので彼らを観察してきて、教室内での威張りようを正月の親戚の集まりでも腕組みをして、睥睨する癖(校長にはなったが)が取れない。たえず他人へ『教えようとする』。なぜだろうと考えると、外での自分をそのまま内に持ってくる。教師(元含めて)親戚が4人集まるとどういうことになるか?全くつまらない会話の連発。教養の片鱗も見えない。私が結局音頭を取り、話題を誘導して場を盛り上げる役回りで40年やってきた。教えられる方は勘弁願いたいという顔をするが、そういう自分も得意分野に入ると同じことをしているわけだ。引きこもりの人と会話するとわかるが、自己都合の話がとても多い。実は教師も同じであるし、サラリーマンやOLも自己都合で生きているから、なあんだ、同じ穴のムジナかというわけできょうのブログ終了

 

  1. 家内の口癖「あんたは逃げる場所があっていいね」と。自分自身逃げているつもりは無いですが、結果はその通りかも知れません。仕事にかこつけて毎日出勤。大した仕事でも無い時も同じルーティーンの繰り返しです。まるで家に居る事が嫌としか思えない行動が数十年続いています。コロナ禍でロックダウンにでもなれば別ですが、「暇な時は休めば?」と、他人から見れば無意味な行動と取れるのではないでしょうか。確かにオフイスはある意味引き籠りの場所と言ってもいいかも知れませんね。家で引き籠ろうとしても、突然!家事を頼まれたり、容赦無く声を掛けられたりと、独りにはなれませんね。しかし、片や、それを幸せの家庭生活と思う人も居るのでしょうね。引き籠もりも、誰からも忘れられてしまえば、自らの努力で回復に向かう努力をするかも知れませんね。

    • 一人も好き、相手がある暮らしも好きでちょうど塩梅がいいのだと思います。ほんとうは社会なんてどこの国の人も好きではないかもしれませんね。せいぜい家族と親族、周り10軒くらいで暮らせればどんなに幸せかも。役人や税を集める人もおらず、食べ物を採集して皆で分けて食べ、あとはごろごろ寝て暮らせる。たったいま新千歳空港の映画館から帰ってきました。鬼滅の刃を見てきました。面白かったです。煉獄という名前が出てきて、あれこれってダンテの『神曲』にある『煉獄』編から取ったのかもとか、無意識と核という言葉を見てフロイトを勉強しているねとか、日本昔話も読みこなしているなとか、才能のあるやつは人のために生きろというメーセージがあったり、弱いものいじめやめろとか見る人の年齢や環境で届くものが違うだろうと考えて鑑賞してきました。けっこう説教臭も多くて、このあたり世代を超えて見られるのでヒットしている原因かもしれません。少し泣きました。

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