カリンバ遺跡と漆文化(新型コロナ流行前)
重要無形文化財「蒔絵」の保持者に認定された室瀬和美さん(1950年生まれ)の『カリンバ遺跡と漆文化の素晴らしさ』を聞きに行った。筆者の自宅裏の図書館にわざわざ漆の話をしに来られて、どんな話になるのか1時間聞いてきた。『漆』という木は、普通樹木はすべて『木篇』で漢字表記されるのに『漆』という漢字だけは、水偏の漢字で『木』が上に乗り、他の樹木とは扱いが違うところから話は入っていく。カリンバとはアイヌ語で『桜の木の皮』という意味で、近くにカリンバ川が流れていて、その周辺から縄文時代(3000年前)の漆製品が大量に出土した。漆塗りの櫛がたくさんある。この場所にはたくさんの漆の樹木があって、木々の皮に傷をつけて、垂れてくる樹液を集めて漆を採取して、工芸品に仕立てる技術者がいたということになる。漆の木1本で15年間で約150ccを採取し終われば枯れる。だから漆製品をたくさん作るためには相当の漆の木々がないといけないと先生は言われ、現在は岩手県で多く栽培されてはいるが、需要をまかないきれてはいない。国産の漆はわずか2%でほとんどは中国からの輸入に頼っている。『蒔絵』は中国にはない技術で世界で唯一の漆の使われ方であると。
私の住む町にはカリンバ遺跡という国から文化財指定を受けた縄文遺跡がある。郷土博物館にたくさん出土品が置かれてある。
自分が偶然住んだ町に、こういう縄文時代の数々の遺跡や土器が埋もれていることに気づくと、孫が生まれて未来につながる感覚を覚えるのと似ていて、過去に生きた人々に親近感が沸いてきて、そのDNAを私も引き継いでいるんだという気持ちになる。室瀬先生の話では、漆を使った蒔絵が奈良時代に突然始まる。その前に、何かあるだろうと探すがない。ある日突然現れたという表現をしていた。生物学の泰斗今西錦司さんが、『なぜ二足歩行を人類はしたのか?』という問いに『ある日突然立ち上がった』と答えたことを思い出した。時間の順序での進化論ではないと。室瀬先生も漆の技術について、その採取、その保存、乾かし方など現代と縄文ではほとんど差はないとも発言していた。私たちはいつのまにか直線的な時間は人間を進化させて、賢くなるとどこか思っていないだろうか。しかし、現代を見てみると『人間はむしろ退歩しているのではないだろうか』。有益な漆の話であった。
昔の少年。
漆塗りの漆器は普段使いよりはめでたい行事などで食事する時に使われていましたね。野山があそぶばだった子供の頃は漆の木に触ってしまいよく被れました。そんな手でオシッコでもしようもなのなら大変。チンチンまで痒くなったものです。そんな時には早速谷川に行きサワガニを数匹捕まえて手拭いに包んで岩の上で石で叩いて潰した汁が患部にポンポンも塗って治りを待ったものです。漆は子供たちの天的でした。
seto
漆は輪島に行ったときに、工芸品としてお椀とか箸を見ましたが、まさか私の住む町に縄文由来の漆の服飾品があるとはびっくりでした。親や教師から「山(札幌円山あたり)へ行ったら漆にかぶれないように」と諭されましたが、どれがうるしかとんと興味はなかったです。昔の少年さん、たくましい!
昔の少年。
江戸時代も漆塗の加工品は多かったようですね。あの水戸黄門の「この紋どころが目に入らぬか!」の印籠も、刀剣の鞘も、高級品には漆塗りが施されていましたね。襖の枠や膳や食器も漆器でした。豪華な仏壇や坊さんの椅子などもそうでしたね。蒔絵などはそれよりも古い手法なのでしょうね。我が故郷の福井県の小浜市あたりでは昔から若狭塗と称して鮑などの貝の破片を漆塗りで封じ込めた綺麗なお箸などもありますね。
seto
さすがの福井ですね。前田藩にも近いし、京都にも近いし。北海道の文化とは厚みが違います。職人文化が育つための環境がなかったです。それより食べるため、冬の寒さを防ぐ、大木を切る、精一杯の暮らしでしたが、暮らしに合わせた漆の加工がどこかで、縄文リバイバルで再生できるといいですね。
広告マン。
しかし、縄文時代から漆の技術があったとは不思議ですね。自然の恵みをあらゆる分野に生かし暮らしていた証拠の一つですね。偶然の発見なのでしょうか?なぞは深まるばかりですね。
seto
一度、恵庭市立郷土資料館に来てください。漆作品、たくさん展示されています。漆のかぶれに縄文人も苦戦したでしょうね。弥生が3000年くらいだとして縄文は2万年ありますから、圧倒的に縄文が長い。どこまでも自分のルーツにこだわる人がいます。DNAを追いかけると先祖はバイカル湖の下のある村の住民と日本人は酷似しているという研究者がいます。果たしてどうだか。