それにしても西半球の知性は・・。
「それにしても西半球の知性はイエス・キリストのために何と莫大な浪費をしていることだろう。ゲーテはイエス神話をめぐる智能の動員のために人類はまだ1万年は停頓するであろうと嘆じた。全くランボーの言い種ではないが(キリスト!おお、キリスト、ひとの精力の永遠の盗人め。」(林達夫 思想の運命 中公文庫 333p モオリャック・イエス伝について)。
先だっても林達夫さんの本の引用をしたばかりだ。映画にしろミュージカルもそうだし、演劇も小説も、ユダヤ思想も、イスラムとの戦争もイエスの存在抜きには語れなくなってしまう。アメリカもヨーロッパからの清教徒移住だし。この先、ゲーテが言うように1万年はイエスを、キリスト教を話題にすれば大学の先生なら定年まで食べていける主題である。1万年先だとしたら、300年先まで職が保証される(30年の学究生活として)。これを同じく「古事記」研究とすればどうだろうか?か細く学問の隅でひっそり研究かもしれない。
生命の歴史、人類の歴史を考えると、ほこりの粒みたいな年月でしかない。たった2000年前の出来事(神話づくり)でしかないのに人々の日常生活に影響を及ぼしていることを考えると非キリスト教徒からみて不可解でしかない。科学技術にしても、ある現象の背後に法則を見つける営みは「神はランダムに自然界を作らない。ある規則性の中でつくるはず」という予測のもとに探求するから発見される。ニュートンが敬虔なクリスチャンであることと科学者であることはしたがって矛盾しない。
してみると、ゲーテが言う1万年は停頓するというのは科学技術においては併存すると言い換えたほうがいい。「それにしても西半球の知性は・・・」と書いた林達夫さんは、ルネサンス研究家でもあり、ファーブルの昆虫記の翻訳者でもあり、平凡社の百科事典の編集長でもあり、モンテーニュ「随想録」(関根秀雄訳)を誤訳の指摘をしてきた孤高の大知識人である。レオナルド・ダヴィンチのモナリザは「男の顔」だとも指摘している。
その彼が「それにしても西洋の知性は・・」と言うのだから、よほど腹に据えかねた無駄な・呆れる知性の壮大なバベルに見えたのかもしれない。東洋のヴォルテール林達夫が現在、生きていたとしたら、なんと発言をしただろうか?たぶん、沈黙を決め込み、庭のバラの手入れと虫の集合場所を確保して、観察でもしているかもしれない。真実は声低く語れ・・・が彼のモッ国トーだ。戦前・戦中の日本社会の拡声器みたいな軍人行進・旗振り合戦、愛国パレードに辟易していた。知性を捨てたヘイト合戦が世界中を席捲している。もちろん日本の国会も。ひそひそでもいいから真実を語って欲しい、官僚もね。税金で食べているのだから、納税者へせめてそのくらいの責任感はあると思いたい。
坊主の孫。
宗教は社会のルールの一部でしょうね。しかし宗教には各派閥があって争いも絶えませんね。今現在もアフガンではアルカイダとイスラム国が国を制圧も、まだまだ知性ある住民との間に深い溝を作っています。これは同じ宗教内でもこの有様ですから、神を盾にわがまま放題は目に余りますね。罪のない人民を無差別テロや襲撃で殺戮して果たして、崇められるその神とは一体何者でしょうね?神にも色々居ると言う事でしょうか?信じがたいですね。イスラム教ばかりではなくあらゆる宗教には宗派の違いがありますから、お互いに認め合えれば平穏な社会にもなるのでしょうが、他宗教を敵視したり、多宗派に対して排他的になる思想が争いにまで発展している現状ですね。この負のスパイラルは昔から少しも変わっていないようですね。
seto
ユダヤもキリストもイスラムも全く同じ神への信仰なんですが。神が存在するとしたら、ここまで信者が銃器をもって、人殺しをさせることを黙認するでしょうか?哲学でも神の存在証明論で出てきます。全部、ほおっておいて、最後の審判で下されると言いますが、果たしてそんなことがあるのかどうかさえわかりません。本当に信仰なんてあるのでしょうか?老子でも読ませたほうが世界平和につながります。
坊主の孫。
神話が先で、信心はその後付けなんでしょうね。立派なシナリオが出来て、その内容に賛同した人たちが立派な教会やモスク
を作り、そこで集会を開き、三々五々布教活動に歩き宗派組織拡大を実践した結果一つの宗派は出来上がるのでしょう。親は子に、子は子たちへ。宗教法人の学校(ミッションスクール)だってありますから、教育の一環としての布教活動も公然と行われていますね。全てが西洋の宗派には限りませんが。
seto
わからないことや謎の自然現象や天候や飢えや生きる上で起きる不可解な現象を、部族を守る動物や精霊に負わせる習慣が宗教を生むのでしょうか?仏教では生病老死とか言いますが、アフリカであってもインカであっても生病老死はあるわけで、別段仏陀でなくてもいいわけだと思うのです。ユダヤの神もキリストの神もイスラムの神も同じなら、いっそうケルトやピグミーやアイヌだって、具象的な動物ではなくて抽象的な神であってもおかしくないと思います。しかし、現実はそうはならない。この違いは「言語」、特に書き言葉の存在の有無でしょうか。不思議な生物、人間です。時々思うのですが、言葉がなくなれば世界は平和になる気がします。超天才哲学者ヴィドゲンシュタインが最後は「沈黙」で思索を終えています。この年齢になってわかる気がします。