空白な手帳に恐怖する
49歳のときに急性心筋梗塞で60日間入院。安静にしていて、気になるのが仕事であった。妻に携帯電話を持ってきてもらい、日ごろ付き合いのあるお客さんの電話番号を一覧表にしてベッドから見える壁に貼った。よーしこれでいいぞ。いつでも病室から仕事をするんだという意気込みというか自分のプライドであった。
いま思えばサラリーマンの悲しい性(さが)だ。私の入院は、別な営業からすでに取引先へ連絡をしているので、仕事の電話をかけてくる人はいなかった。それでも仕事は進行していた。驚くなかれ、入院した2か月間、月の売り上げと利益がいつもの月より増えている。
請求書だけは私のチェックが必要なので、自宅へFAXが帯のように流れ、担当者へ請求書送付OKの電話をする。別に自分がいなくても会社は困らないと実感した事件だ。困らないどころか、利益を増やしている。内心、「日頃の付き合いがあったればこそ、私の窮地に、応援の発注が来ているんだ」と傲慢に思っていたりする。負け惜しみだ。
しかし、退屈だ。とにかく退屈だ。病室で企画書を書いてなんになる!?誰が営業するんだ?!いつも使ってる手帳を開いても書かれてあるのは、精密検査の日、カテーテル実施日くらいであとは空欄・空白。誰々さんがお見舞いで菓子を持参程度。打ち合わせもなければイベント実施日もない。
そういえば、ビジネス手帳をスケジュールでびっしり書かれてあるのを見てニヤニヤしていた先代の社長がいたことを思いだした。手帳を予定で埋めることでどこか安心する、サラリーマンは本物のマゾ集団かもしれないなどと妄想していた。予定の文字に自縛されて快感を覚えているわけだ。
時間っていったいなんだろうと思う。入院してわかる時間は太陽が昇り、沈み、朝が来て、夜が来て、また朝が来てを繰り返す静かな時間だ。その間にまずいご飯はあるけれど。「手帳を見れば、彼が仕事をしているかしていないか一目瞭然だ」と叫んでいた役員もいた。彼の手帳は予定で真っ黒だが、稼いだのはゼロ、しかし莫大な経費を食っていた。
手帳、この不思議な存在・・・。自分が必要とされているという実感を強く持つためのツールと言い換えたらどうだろうか。ときどき空を見上げたり、花を見たり、公園の緑を観察したり、自然に近づくと濃すぎる人間関係も薄まり、気持ちが楽になる。空白な手帳部分を無理して埋める必要はない。実は時間が空いていても「その時間はちょっと無理」と言い、心身を休ませる賢さを持ちたいものだ。皆さん、心身症にはご用心!!
広告マン。
手帳と言えば、外国製の本革装丁のバインダー式システム手帳が流行りましたね。私も便乗した一人ですが、新卒の後輩たちが私より立派なシステム手帳を持っていて羨ましかったですね。有名メーカーの物を競い合って持っていた時代でしたね。あれは、今で言うスマホみたいなもので肌身離さず絶えず持ち歩いていたものです。システムの中に名刺入れのホルダーが有ったり、ポケット式の財布代わりになりそうなパーツなど様々でした。私は当時仕事で使った4x5判のポジフイルムまで挟んでいましたが、ポケベルが鳴る度にクルマを停めて電話ボックスに立ち寄り電話をするのですが、電話番号簿にもなっていたシステム手帳ですから、仕事が立て込んで来ると電話ボックスの棚に置き忘れて、帰社して初めて手帳が手元に無い事に気づき落ち込んでいたところに、同業他社の方から電話で「置き忘れていましたから預かっていますので」と。同業者の方だったからポジフイルムの大切さも理解していただいたようです。最高にありがたかったです。その後或る年上の方に同行営業した際に気づいたのですが、その方は手帳類どころか鞄さえも一切持っていませんでした。ところが一度会った方の名刺をストックした後はすべて覚えていたのには驚きました。そんなお手本を見てから私も手帳は止めました。形態も無い時代でしたから電話番号も出来る限り暗記しました。お蔭で数字を覚える事が得意になりました。打ち合わせも手ぶらで耳で聞いて解釈し下書きや下描きなど一切せずにいきなりPCで制作するようになりました。今や手帳は懐かしい思い出ですね。
seto
流行りましたね、システム手帳。電算機や定規までついていて、年度ごとの手帳部分だけ入れ替えてました。仕事ができる男の必需品のような(錯覚)気がしました。私は昔ながらの手帳で済ましていました。ポケベルとテレカ持参でした。ポケベルを落としては始末書書いてました。システム手帳は分厚い人もいて、それだけしか持たないで、颯爽と大通り公園や駅前通りを闊歩しているとビジネスマンここにありで絵になりました。数字の暗記や名前の暗記がダメでした、ここは手帳依存です。手帳は日記の代わりにもなるので、ものを書いたり、営業職の人なら金額の確認や打ち合わせの内容メモで用途は多かったです。デスクにもカレンダーがあって私の下手な文字や数字が踊っていた時代です。
坊主の孫。
現代はすべてPCですが、文字変換機能で探す癖が、字を書けなくなってしまいました。一々スマホの辞書機能で調べたりする始末です。この症状は「読めるけど書けない病」ですね。PC依存は、やがて記憶力の衰えにも繋がりますね。今では何でもネットで調べるようになり、知識だけは豊富になるでしょうが、イザっ!何かをやろうとしても自分だけの力では何もできなくなっていますね。周囲に頼れるものが多すぎる時代に逆行してモノづくりを広めたいですね。自分も含めて、このまま流されてはいけませんね。その点では薄型PCやタブレットを持ち歩くよりも、手帳でもスケッチブックでも書いたり描いたりできるものを持ち歩くのが良いかも知れませんね。
seto
スマホ落としたら悲惨ですね。一度携帯を忘れて、自宅へ電話しようと固定電話や電話BOX探しに苦労した覚えがあります。スマホ多用する人は長い文章を書くのが苦手な人が多くなるかもね。PCの中にある検索で出てくる知識を過剰に信用してしまうかもしれません。思考の単一化です。スマホでも出てくる言葉が使用頻度の高い順番なので、創造的な言語の作りこみは下手になる可能性あります。アナログ経験の山に築かれたデジタル世界なら柔らかい表現が出てくるでしょうが、考えるのは手ですから、お互い、指より手を動かして大脳や小脳を活性化させ続けていきましょう。