8月15日のポツダム宣言を日本が受諾したことで、連合軍はマッカーサーを司令官に決め、各国は彼の命令に服することを決めたことはご存じだとは思うが、ひとりソ連のスターリンだけは異を唱えて、北海道の北側半分(留萌から釧路を結ぶ線以北)と東北の北側、さらに東京を英米と半分づつ(ベルリンみたく)占拠する案を要求した。言下にアメリカはこれを拒否した。なぜ、スターリンは北海道占領にこだわったのか。『1919年から1921年にかけて日本は、ソ連に侵攻して、ソ連の極東地方全域を占領していた。その恨みがあるから、この際、日本の一部でも占領しないことには、ソ連国民はおさまりがつかない』(スターリンからアメリカ大統領・トルーマンへの書簡)。歴史というものは危ういバランスに立って今がある。(万一、ソ連の侵攻があれば現在の私はいないかもしれない)それならばということで実行されたのが極東地域にいた日本軍人の『シベリヤ抑留』でシベリア開発をさせるためである。北海道を占拠した場合も道産子のシベリア行きを計画していた。シベリアは天然資源の宝庫で、スターリンはソ連全体を収容所化して、囚人1000万人を奴隷化して働かせた。日本の軍人は60万人で、一番多いのはソ連自身で700万人、次に多いのはドイツ軍捕虜240万人で3国で合計1000万人になる。最近の研究ではもっと多くて1500万にはいたのではないかと言われる。4000万人になるのではないかと推理する人もいる。というのはドイツ軍捕虜は350万人、フランスとイタリア合わせて400万人を超えるとか、さらにバルト3国や東ヨーロッパの捕虜数が数えられていない。反ソ分子、スパイ活動家、社会的な危険分子などの罪名をつけてシベリア送りは数知れずの世界だ。作家ドストエフスキーもシベリアに流されている。シベリア鉄道は囚人の移送鉄道であった。囚人の国別の死亡率も残っている。ドイツ兵は30%を超える、日本兵は約10%、イタリア兵は88%の死亡(映画ひまわりの背景にシベリア抑留がある)。日本兵の抑留者については、自身、シベリアから生還した村山常雄さんが10数年にわたって作成したシベリア抑留者死亡者名簿がある。http://yokuryu.world.coocan.jp/

*参考:立花隆『シベリア鎮魂歌』香月泰男の世界 文藝春秋

  1. かつて日本軍が外地で行ったであろう残虐行為が今の時代になっても恨まれ、結果脅かされ一触即発の危険性を帯びてきました。過去のツケは大きいですね。戦争を知らない私達は有事の際の対応など持ち合わせていません。遠いウクライナが対岸の火事では無くなりました。

    • 荒らされ、殺され、盗まれ、凌辱された記憶は一生消えないどころか、末代まで伝えられます。文字として写真として絵として語り部から記憶され続ける人間の歴史。かつての日本も中国、韓国、北朝鮮、東南アジアやハワイへ侵略して人を殺したわけで大義名分が、油や地下資源を確保するということでした。最後まで外交力を発揮できない国になってしまいました。戦争にならないために外交があるのに、起きてしまった後の外交も、多くの知恵が必要となります。外務省は無駄飯ばかり戦前から食べているのではないでしょうか?

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