『つねづね思うのは飽きてからが仕事なんだなあということ』(松尾すずき)
『中年入門』(松尾すずき 朝日新聞出版 173p)より。
20代、30代は全力で走り続けるが40代の半ばになると、若いときの惰性で仕事をし、あれはああだな、これはこうだなと見当をつけるが、しかし締切もあり、あちこちと打ち合わせや企画書を書いたり、営業したり、取引業者との金額の折衝もこなさなくてはいけなかった時代がある。『飽きてからが仕事なんだ』という一言にぐさっときた。仕事が決まると、決まるまでの新規開拓や営業先を探したりしていた情熱的な自分が背景に去り、以降、仕事の進行は誰かにやってほしくなる。誰にでもできる仕事はしたくない。これって中年だよね。だからといって、いまさら別な路線や仕事にチェンジできる応用力も自分にはないしね。子供がいればとんでもなく高い地獄の教育費の心配ごとが増える。たとえ無事に教育期間が過ぎても、子供への親の心配は消えない。結婚して孫でもできたら、離婚して帰ってくる可能性も視野に入れないといけない時代だ。さらに住宅ローンでを組んでいれば、台所は火の車。月々使える亭主の小遣い(いまは平均月々3万8千円)も減らさないと家計は赤字になる。会社の経費での飲食費もきついとなると、呑み助は自宅で焼酎や発泡酒で疲れを発散するというわけだ。若いときに遊んでいた玉弾きやお馬さんへも行けない。
『仕事』だけを考えると、私は6時過ぎの残業時間の方が静かな職場になり、集中力も増していい仕事ができたように記憶する。身近にいた先輩は、歩きながらも仕事をしていた(散歩や通勤途上でヒラメキ多い)。メモは欠かせない。大脳はフル稼働だし、こういう人は肉体労働も上手だった。そして思い切って遊んでいた。実際、イベントは彼の十八番。率先して、楽しみながら動いていた。私もずいぶん彼の真似をしたものだが遠く及ばない。
ところで、ここで『仕事』を『結婚生活』と置き換えると・・・『つねづね思うのは、飽きてからが結婚生活なんだなあということ』。妻側から見ても同じかも。
広告マン。
結果だけを見れば『仕事でも結婚生活でも理想形は無く』と言うより理想には程遠いと言うのが実情でしょうね。確かにいずれも歳を追うごとに惰性で過ごして来たところもあり、当初の新鮮味や新たな興味が失われている事にも気づきますね。長年の経験で、さほど失敗も無く成し遂げたりして過ごして来た事も、これまでの場数に比例していて勝手に事を運ぶようになっていて、新たな事への挑戦はしなくなっている事にも気づきます。しかし時代は日に日に推移している訳ですから結果は言わずとも明白ですね。昔は良かったなどと回顧し、ともすれば現実から目を反らす事で逃げてしまいそうな自分も存在します。自分一人の世界なら思い通りに自分流を貫けばいいのですが、仕事や家族や、いわゆる運命共同体の中では協調性も求められます。自分の置かれている環境に適合しながらも、自分自身の理想をも成し遂げる事ができれば最高ですね。年頭に当たって難解なテーマにぶつかってしまいました。
seto
理想形より惰性で毎日を送ってましたね。、サラリーマン時代も大きな仕事を終えて、やれやれの時間が惰性でしたし、家庭も妻に投げてばっかり、育児はしていませんでした。29歳のとき「開かれた家庭」という理念で結婚生活を始めました。当時、「開かれた)何々という単語が流行った時代でした。閉塞的な家庭や社会を超える考え方でした。わたしだけが開いて遊んでいたように思いますね。家庭は火の車であったのに。自分が本当は何をしたいのかということも仕事をしていても定年になってもわかるようでわからないものです。その自分っていったい何なのかさえわかりません。夢中になってスポーツや絵を書いたり歌ったり、パソコンやってるうちは気づきませんが、すべて終わって一人になったとき、または病気になってベッドで横になったとき天井を見ながら思うことは「自分の人生ってなんだろう」と自分に向き合うときですね。向き合いたくないので、何かに夢中になる(趣味や育児や料理や本やボランティアなど)ことをつくってるのかもしれません。「飽きてからが仕事なんだ」というのは、より自分自身に向き合う機会が多くなりますよという合図かもしれません。自分に飽きるのかもしれません。
坊主の孫。
自分が飽きたと言う事よりも、相手に飽きられたとも言えるのかも知れませんね。お互いをさらけ出して正直に生きて来たつもりも、相手にとっては、また自分にとっても受け入れがたい部分も見えて来て摩擦したり、距離を置いたりしている事に気づきますね。自我を犠牲にして協調路線を取ったにしても長年培われた?溝はなかなか埋まりません。では飽きた時。また飽きられた時の対処法はあるのでしょうか。それには、最初に戻る事が理想ですが、ムリでしょうから、少なくともやや距離を置いてお互いのエリアを保つ事でしょうね。心のソーシャル・ディスタンスですね。
seto
他人に飽きられる、他人を飽きる。すべて付き合いにおいて、尊敬がないといずれそうなると思います。尊敬は距離を促すので長い時間つき合えるわけです。困ったときアドバイスや受けたり、逆に手助けをしたりする営みが出てきます。心理学でも自我をバランスよく保つために、距離を取ることが大事で、夫婦間でもそうです。利用する利用される関係もビジネスライクにはいいのでしょうが、見ていて50対50には見えないケースが多いですから、時間の経過とともにどちらかが不満増大になるでしょう。「足るを知る」(仏陀)の伝でいけば、相手への期待や欲を減らせば落ち着いた気持ちになるのは確かですが、これでビジネスができるかどうか?
アドマン。
自分の時間空間が欲しいと思いながら長らく都心のオフイスに通い数十年。しかし昨秋から自宅兼オフイスに鞍替えしました。でもなかなか落ち着きませんね。仕事の最中でも声を掛けられ家事を要請されたりと。家に居るのだから出来る限り家事は進んでやりますが、これまでの勝手と違うのは静かな自分の空間が無くなった事ですね。昨日はデスク廻りを整頓しようと組立家具を入手して朝からガレージで組立て作業で午前中いっぱい掛かり、家族が寝静まった深夜にデスク横に設置。散らかっていた書類は棚に、小物は引き出しに、カメラなど小道具は扉付収納部分にと整理整頓。今朝も早々と起きて2台のデスクトップと2台のハードディスク2台のプリンターなどの配線廻りを整理して若干ですが快適な仕事場ができました。これで落ち着いて仕事がはかどれば良いのですが、長年の癖で、どうも街に出なければ落ち着かず、午前中はデスク仕事、午後は営業がてらウロウロと外出しています。長年通った都心も飽きた筈でしたが、長年の癖は治りませんね。
seto
「静かな自分の空間」ですね。その確保ですね。在宅ワークしている人からも悩みのメールが来ます。狭い自宅で子供2人、奥さんから「公園へ連れていって、買い物してきて」と要請されて、仕事に集中できないと愚痴メール来ます。せめて自分の体の1メートルは防音で確保したいものですね。しかし、自宅は所詮自宅。オフィースは自宅と離れた場所にあるほうが仕事がスムースに運び、情報も他人がやってきて置いていく、景色が自宅とは変わる、通行人が変化する、空気が変わる、結果、自分が若返ります。しかし、そのために家賃や電気代など負担する金額も多くなります。辛い所です。ローマ時代から「都市は人間を自由にする」と格言あります。なぜなのか?誰も自分を見ていない、関心を持ってくれないところが自由感を保証してくれているんでしょう。「牛乳がないから買ってきてくれ」とは他人から言われません。