1)図書館リサイクル本の整理をしていると希少本に出会える。例えば下記の写真。

能の観世流 「仕舞入門 形附」。昭和54年10月 檜書店刊。

目次本もあるが、ほぼ演目が全部そろっていそうで60冊。

札幌に観世流の能を勉強する会もあるので今度聞いてみよう。団地の中で能を舞っていた人がいたのかもしれない。

2)嫌いな11月。午後4時半で外は暗い、気持ちも落ち込む。そして寒い。ムンクの「叫び」の絵が似合う。早く夏が来ないか、それは無理。まずは除雪から始まるか。22歳で本州で就職した兄は雪国離れて50年。北海道のニュースは追いかけているんだが、イマイチ,共感力が足りない。11月、12月の夕方になると胸が苦しくなることがあるので要注意の私だ。薪能を2回見たことがあるが、お面の下からしゃべるので、くぐもって聞こえたが、意味がわからなかった記憶がある。

近所の日本庭園カモが群れている。

3)自宅近くに恵庭道の駅がある。ノートパソコンを持って広い窓から外を眺めて開放感を味わうひとときだ。天気の良い日は駐車場は満杯。道の駅のショップ・レストランは「びっくりドンキー」のアレフが運営している。レストランのカレーは超美味だ。シマエナガグッズも豊富。

4)娘婿と見学した豊後高田市 「昭和の町」を思い出す。ダイハツに勤めているので、ミゼットの前で笑っている。また行きたい。数年前、マレーシアに1年半単身赴任して、初の国産車軽自動車のボディ製造を任され、現地人を指導して、無事に1号車をラインから送り出したとき、当時のダイハツの社長さんからハグされたのは有名な話だ。「自分の人生でここまで働いたことはなかった」と正直に私に語っていた。帰国しても技術取得で来たインドネシアやマレーシア、タイの研修生の面倒をよく見ていた。集団で暮らしているのでときどきお菓子や果物も持っていく気持ちの優しい娘婿だ。「男はつらいよ」ね。以前、「お父さん、たまに僕のこともブログに書いてくださいよ」と注文を受けてもいた。これで約束を少し果たしたかな?

 

これらの昭和の品々は、福岡に住む収集家から寄贈されて作られたのだと係員が言っておりました。果たしてすごい量で、映画のポスターやコカコーラのポスター、雪印乳業、明治、森永製品の箱もあり。小学校の教室は筆者一番のお気に入り。クラスで一番背が低かった私なので、座るのは一番前でしたから。

 

  1. 昭和と言えば、田舎に住んでいた家の右隣がタバコ屋さんで赤地に白文字で『こばた』のホウロウ焼き看板がありました。子供なのにタバコも売る手伝いをしたので全て銘柄も覚えました。左隣は酒屋で裏庭には酒蔵もあり、子供なのに店の玄関先の上がり蒲地で酒を売る手伝いなんかもしました。樽から木製の蛇口をひねってガラスのコップに注いで野良仕事や林業の労働者諸君にあげるのですが、通い帳に筆で『正』の字を書き足します。今ならレジでしょうね。現金で払う人は皆無で年末に一気に集金となりますが、払えなければ土地を頂くシステムです。その登記簿は私の父が達筆と言うだけで役場の臨時職員よろしく和紙に筆書きをして綴じられます。ですから酒屋は村一番の金持ちで土地持ちです。酒は麻薬みたいなものですね。また或る時には父が何気に描いた水彩の風景画を酒屋の若旦那が見て、売ってくれないか?と。私が見ても余り上手とはお世辞にも言えない絵を?、あのケチで強欲な若旦那が?不思議でしたが、理由を聞いて納得しました。なんとその絵のモチーフが偶然にも酒屋の持ち山だったのです。当時で数万円も貰ったと覚えています。芸は身を助くですが、欲の無い父はその後は山の絵は描きませんでした。田舎は古い物ばかりでしたが、今も残っている物は或るのでしょうか?。九州の備後高田の昭和蔵を見せていただいて思い出しました。少年時代には竹馬の友と悪さばかりしていて或る時には農協の三輪オートバイを勝手に動かしたりしました。確かダイハツではなくクロガネだったと思いますが(笑)。今は無いと思いますが、小さな村なのに鍛冶屋までありましたからね。機会が有れば訪ねてみたいです。

    • ホーローの看板、懐かしいです。大塚のボンカレーや大村崑さんがCMに出ていました。タバコ屋や塩の専売も看板ですね。日本酒も大きな看板ありました。昔の少年さん、小さなころから大人の世界に入って観察してましたね。お父さんの水彩画、もう少し欲を出せば、酒屋さんが大得意な商いになったのにもったいないです。パトロンですよ。豊後高田に小樽の中央バスがブリキのオモチャでありましたよ。自宅にもあり、ガキたちがそれに乗って遊んでいたので懐かしい限りです。なんといっても小学校の机や黒板が懐かしい。クロガネって軽自動車をつくるメーカーでえすか?

  2. ゼロ戦パイロットの弟。

    田舎では小学校に一番近かった私は『ジャン!ジャン!ジャン!』と朝礼の鐘が鳴ってから家を飛び出します。『滑り込みセーフ!』と皆がからかいます。小学校は我が家の延長で遊び場でしたから、現代の不登校など考えられませんでした。中学には夏は自転車通学ですがナショナル提供のラジオ『歌の無い歌謡曲』が始まると家を飛び出します。中学の自転車小屋に到着すると2階の教室の窓に片足をブラブラ出した同級生たちが手を叩いて囃し立てます。少し照れながらも有名人気取りで気分は最高でした。彼等は学校で一番最後ギリギリに登校する自分を楽しみにしているのです。その頃になると思春期ですから好きな彼女なんかも数人いたりして(全て片思い)学校へは絶対行きましたね。不登校なんて想像もできませんでした。下級生の優秀な男児が私を『隊長!隊長!』と呼んで慕ってくれました。思い当たる理由は田舎の子たちが被るツバの長い学生帽と違って、東京の姉が買ってくれたツバの短いしかも少し腰が高い帽子に白いカバーを掛けて目が隠れるほど前に下げて、しかも真っ白なバスケット・シューズでカッコつけていたからかも知れません。まるで予科練みたいでしたからね。田舎の学校の教室や廊下を思い出しますね。今は?何故?不登校が多いのでしょうか?楽しく無いのでしょうね、学校生活そのものが。もう昔には還れないのでしょうね。

    • 學校は遊ぶところでしたね。中学は一番に登校して放送室に飛び込み、朝に流すレコードを選択してました。朝礼はみな体育館に整列するのに放送部員は特権で出なくていい。マイクを下げる仕事でした、昼休みも体育館で遊び,校庭でサッカー。ワイワイ忙しい学校生活でした。クラブ活動はしない子供も多くて強制はなかったですね。貧しい札幌東区の工場地帯でしたから、貧しいもの同士助け合って遊んでましたよ。古谷製菓の常務はいましたが、そうした人は少数でおぼっちゃんとして誰にも威張らず、いい性格をしてました。昭和です。

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