『今の人はとにかく自分が好きである。自分のことが好きで好きでならない。その上、自分さえあれば社会は成立すると考えているようである』の文章で始まる、阿久悠さん『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』(新潮社242p)の発言

私も世の中、どこへ行っても、そういう類の人間の塊を見てしまう。他人の視線を気にするとよく言うけれど、それも『自分を愛し過ぎる』からこそ出てくる振る舞いで、率先して、『自分のことは後にする』ではなく『自分のことを先にして』生きるモードばかりである。まずは隣や横の人が困っていないか配慮して生きていた人が昔は隣近所の節介焼きやクラスの生徒会長などにたくさんいた。私自身、そういう人に囲まれて生きてきた幸福な時間を持っているから、自分にもお節介の癖がついてきた。今でも20代や30代の人間に接するときは、『そこまで気になさらないで』と言われることが多い。そしておしゃべりときてるからあんまり信用はされていない模様である。

しかし、私から現代人を見て、とにかく自分の世界があるのかないのか、あるように見せかけて『自己愛』に閉じ籠る。関心のあることには異常なまでの執着を示していながら、世の中全般や他人との敬語を交えた会話や丁寧な振る舞いは苦手なようである。そういう私も、それが理想的な振る舞いとは思えるが、なかなかできない。

で、大事なのは最後の『社会の迷子になる』という一言で、他人と自分の組み合わせの世間で自分の位置を知ることは、迷子にならない近道である。家族の中でのはっきりした自分の位置づけや地域社会での構われかたが明確であると、人間は幸せ感が強まり、『社会の迷子になる』ことがない。『孤立した自分の部屋に住む子供』より、洞穴で家族が一緒に住むネアンデルタール人のほうが幸せかもしれないなあと思う瞬間である。言葉もそんなに複雑な話はできないが、接触と声と行動で家族のコミュニケーションを取る彼らは現代人より、日々充実した毎日を送っただろうと思う。

殺人事件の半分以上が親族間で起きる日本の現実を見て、『ネアンデルタール人に学ぶこと多いよ』と伝えたい気持ちになる。彼らは、自分のことより家族のこと、隣の家族との協調を第一に生きてきたと思う。それが結果として、安全で落ち着いた、静かな毎日を保障してくれて、大脳から幸福なホルモン・セロトニンを分泌してくれるのだと体で覚えたことだ。阿久悠さんの言う、社会の迷子にならないために、いい顔をした人間で最後を全うしたいものである。

  1. クルマの運転でもそうですが、我先にと無理に割り込んだり、路肩に駐車のクルマを避けようとターンシグナルを点けても幅寄せして来て進路妨害をしたり、挙句の果てには更に嫌がらせのジグザグ蛇行運転で危険な行為をする者まで現れる始末です。お互いに譲り合う精神のかけらもない最悪のマナーに怒りを抑えながらの運転も度々。しかし、だからと言って自分も対抗して居れば事故の元ですから、気持ちを押さえての毎日です。一方、少しでも時間にゆとりが有れば、出来る限り「お先にどうぞ」と譲り合うと大抵のドライバーはハザードランプの点滅でお礼のサインを出しますから、お互いに気持ちの良い瞬間ですね。運転に限らず、お互いに譲り合う気持ちをたえず忘れない事が大切ですね。

    • お見合いをするとき、相手の男を知るのに一番いいのがドライブだと聞いたことがあります。運転していてカットナルタイプや怒鳴る男ならやめたほうがいいと。鉄に守られた自分だけの空間ですから、プライベートの極空間かも。そこで見せるおぞましい言動は、場面を変えて出てくる。そういえば前職でいろいろな社員の車に乗りましたが、怒鳴る・前の運転手を馬鹿にするなど普段会社の中では見せない醜悪なところをたくさん見ました。会社の中でのストレスなんだろうかと思うこともありますが、怒鳴る人は、しかし、運転は上手です、マナーが悪いだけ。

  2. 今になって思うのですが、かつて親元を離れて全寮制の高校に通った頃が自分の中では一番苦しくも有り、また楽しい時間でもありました。共同生活の難しさと、その逆の楽しさも味わえたからです。入学当初はギクシャクしていた同室者とも次第に打ち解けて家族のように成ったものです。おなじ寮の同級生に札付きの不良も居ましたが、何故か味方に付いてくれたので、訳の分からない先輩の暴力に報復してくれたりもしてくれたおかげで自分に危害を加えなくなったりと、家族以上の絆さえ生まれました。元々は他人同士でしたが、寮と言う洞窟生活で同じ時間を共有するうちに、お互いを理解する努力や、譲り合う精神を養えたのではないかと思いますね。

    • 私は学校時代や社会人になっても、愛知県岡崎市で10カ月暮した以外は札幌の自宅通いで,寮の暮らしや団体生活は知りません。考え方が甘いのもその辺にあるのではと自己分析しています。暮らしはしかし、物を欲しがらない人間に育ててもらった気がします。同世代に聞くと、いい車やオーディオがあのころの持ちたいものだったらしい。物欲が知識欲にへんぼうしたのかもしれません。33歳で転職のために免許をとり、52歳ではじめてHONDA FITの新車を買いました。走ればいいくらいの気持ちでしたね。テレビはほとんど見ないから映ればいい。住宅も中古で日当たりが良ければいい、小さな家でいいい。教育だけにはお金を使いました。見えない部分ですけどね。本州の大学に二人の子供に10年仕送りしました。京都と弘前ですが。知見が広がり、後悔もたくさんある青春の日々を過ごし、人間的に成長すればいいという親心ですね。親が残せるのはシツケと教育だけかもしれません。果たしてシツケがうまくいったかわかりませんが。

  3. 日本人はいつからこんなに積極的になったのでしょうね。特に若い女性の場合は顕著ですね。SNSでの情報発信や社交性は男性顔負けです。また事件性の性被害に対しても泣き寝入りなどせず実名さえ公表して裁判に持ち込んでも争う姿勢は、これまでの日本人の大和なでしこイメージとは大きく変わりました。更には、これまで男性の職業と思われていたジャンルにも多くの女性達が進出。女性の男性化?の反面、男性の女性化も進んでいるようにさえも思えます。ジェンダーなども当たり前の時代ですから男女の違いも無くなってきているのかも知れません。一方、組織の中でも女性の起用が増えつつあり、このまま行けば男女比率の逆転さえあるやも知れません。原点は自分を好きだからこそ自ら積極的になれるのでしょうね。

    • 私の周りはボランティア仲間のおばさんばかりで若い人との接触は図書館司書くらいですが、どうなんでしょう?スマホが武器になっていることだけはたしかですね。半面、言葉や表現がきつい感じになってるかもしれません。字数制限や使用頻度の高い単語が文字うちの最初に出てくるので、ついその単語を相手に送る癖がついてしまって、ときに攻撃的、ときに自分の見せびらかしで相手を刺激的にする。それが昔なら男の言動に似てきているのかもしれません。フェイツツーフェイスで話す日本語とスマホで表現する日本語と使い分けている気がします。自分の場合、書いても喋っても段差のない日本語だと自分では思っていますが・・・。運転しているときの激怒もないし・・・。運転手自身の感情の塊が噴出する場面は見たくないですね。10日の日に近所の薬局駐車場で車同士のトラブル発生して、当てた車にしがみついた女性が振り落とされてケガをしたニュースありました。「怖くなって逃げたと」加害者。40代同士の女性。高齢運転者増えて、スーパーでもフェンダーミラーをこする事故が増えています。こすったら相手に詫びを入れて任意保険で直しましょう。

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