言葉なんて覚えるんじゃなかった(田村隆一)ひとりになりたい。
帰途
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
言葉がなければ誤解しなくて済んだのに、なまじ言葉があるおかげで、その使い方が他人に不適切で、気分を害させて、以降、人間関係が切れた経験は誰にでもあるだろうと思う。スマホや短い無料メールのせいで、「メールなんて出さないほうが誤解も無くてスムースな良好な人間関係を保てた」。筆者は時代に逆行するようだけれど、現代は「絆」とか「繋がる」ではなくて「無口」や「一人になりたい」社会ではないだろうかと思うのである。
「孤独死」や「孤立死」をなんとかしなければと報道はニュースにするけれど、「人間はどんな時代や環境でもひとりで死んでいくはずだから」。この法則は変えることはできない。筆者も死に行く母を見守りながら、死んでいく母をどうしようもできない、死に行く母の心の深いところには入れない、何を思っているかはわからない。ただ、私に母は「思うように死ねないものだよ、あっはっは」と言ってくれたことが、せめてもの慰めであった。言葉を山のように積んでも、死はつかまえられない。そう考えて、田村隆一の詩を再度読んでみよう。
アドマン。
言葉にも話し方一つで、どうにでも受け止められるものですね。何気に発した言葉も相手の状況によっては何通りにもの解釈がありますから、意図通りに受け取られれば良いのですが?。考えて見れば言葉の使い方次第では思いも寄らない展開にも。多用されているメールも電話も誤解されやすい一面があり、それが原因で心が離れて行く事も有ります。以前、手紙を多用の時代には夜に手紙は書かないようにしていました。仮に封をしても、朝読み返して出すのを辞めた事も有りました。最近では書く事よりもキーボードを叩くだけですが、それでも誤字脱字がある訳ですから、言葉でなくても受け手に誤解される可能性も否定できませんね。しかし言葉は「覆水盆に返らず」ですが、メールの場合は読み返して送信前に訂正も効くのですから、慎重にしたいものですね。
seto
夜かいたラブレターは読み返すと恥ずかしい文面でしたね。気障でゲーテや小説家の気の利いたセリフをちりばめたこともありました。いま考えても赤面します。携帯やスマホができて、簡単メール(字数制限メール)が出てきて、使う人の日本語の語彙数や表現力が落ちたような気がします。携帯なんか使わないおじいちゃんやおばあちゃんが豊かな日本語を話します。繰り返しやクドサはありますがね。伊集院静さんは、その人の顔を見るそして判断するとあちこちで書いています。それと所作ですね。態度ですね。コトバより心持が良く出る場面です。