家の中が見えない・見せない
自分の家の中って、近所に見せない。町内に数千軒の家があっても長屋時代と違って、特別なことが無い限り他人の家へ入ることは少ない。どちらかの配偶者が不在のときは、入るチャンスが訪れるから不思議。妻が旅行中、友人を3人も居間に入れた。居間には1冊の本も置いていない。結婚式の来賓あいさつを頼みに大学教授の居間に上がったとき、圧倒される書籍の洪水で圧迫感を覚えたものだから、居間に置く家具は低く、本は置かない(本は見えないところに並べる)と二人で決めた。何を読んでるかって知られるのは恥ずかしい。
きょうのブログはこうした可視的な部屋ではなくて、家族構成とか子供たちは何をしているかとか、部屋に置かれた物品ではなくて、何をしているか、または何もせずパラサイトしているのか。結婚はしているか、していたら子供はいるのか、どこに住んでいるのか、長屋なら恥も外聞もなく堂々と話してくれたもので、困ったことがあれば就職の世話さえやったかもしれない。出戻りもあったから、暖かく支えてあげてもいた。
新婚は道営住宅から始まったので、子供の預かりをよくしてくれた。下の子供が病院へでも走るようなら、隣の奥さんが預かってくれ、おやつまで出してくれた。お互いさまで助け合って暮らしてきた。私設保育園の機能が町内に機能していた。お互いに低い所得であるがゆえに道営住宅に住む泣き笑い人生だ。35歳を過ぎて、戸建てやマンションを購入して出て行く。私も37歳で戸建てを購入したが、密な人間関係は、子供を介して増えてくる。子供は地域の外交官だ。ときにこの外交官のお蔭で、国交断絶になる隣近所も生じる。私の家で大事な息子をテレビゲームで汚染したと怒鳴り込んできたお母さんもいたが、以降、そこの家とは国交断絶をした。
男の子なら、親しい友人の家での外泊を含めてよく行っていた。彼からそこの家の中を詳細に語られるから、なんとなくそれぞれの家庭の中が見えた。『お父さんとお母さんのケンカが凄いとか口も利かない夫婦だった』とか。後々、離婚してどこかに行った同級生もいたが。
それが、いまは事件は家の中から始まるケースが多い。そこに同居の子供だったり、親だったり。兆候は必ず見える。ケンカの声が回数多く聞こえてきたり、罵声が飛んだりね。しかし、干渉しない、知らぬ存ぜず、出しゃばらない、聞かぬふり。マンションはまだこの傾向が強くて、又貸しをしていて、何を職業としているのかさえわからないという。知っているのは交番の警察が数年に1回、聞き取りに来る、個人情報は交番に集中しているともいえる。昔、見えた、見せた家の中が見えない。しかし、かく言う筆者も、京都の私大へ通って学んでいると思っていた娘が同棲していたただなんて、知らなかった。情けない。彼とゴールインできたからいいけれども。
他人の家の中をああだこうだと言う前に、まずは自分の足元が問題であった。
アドマン。
我が家は昔は人が集まる家でした。町内で気の合う同士や、知人経営のススキノのスナックに出入りしていた仲間同士で我が家に集まったり、また或る時は中央区の知人のアパートで、また或る時には知人繋がりで消防署長宅や、コンビニ2階の経営者宅などで麻雀をしたり、そんな仲間で小旅行に出かけたりもしました。それもサラリーマン時代で景気も安定していて心にゆとりがあった時代だからでした。それも時代の推移とお互いの事情で離ればなれになり疎遠になってしまいました。今では、あの時代の長屋感覚は無くなりました。あの頃はお互いの生活レベルも似たり寄ったりでしたから、お互い隠す事も無く開けっぴろげの良い時代でした。我が家も何度か引っ越しをして居る内に気づくと、余所余所しい町内に住んでいる事に気づきます。他所のお宅の中には入った事も無く、お互い様ですが、他所様を我が家に招く事も無くなりました。時代変化も手伝ってか?お互いを知る事には、これまで同様に興味が有っても、その反面、知られる事を嫌う様になりましたね。相手が手の内を見せてくれれば変わるのでしょうが、会話は全て家の外の歩道か庭先ですね。
seto
自宅を他人に入れる習慣は昔からなかったですね。こどものころはずけずけ遊びに行ったけど、社会人になって、一家を構えるようになってから兄弟・親戚・両親たち、たまに来る本州のお客さん以外は近所の人は入れません。一度、一人暮らしのおばあちゃんの家に入り、おしゃべりをしましたが、そこにある子供たちの写真や娘さんが弾いたピアノ、仏壇の置いた和室の先祖の写真など見るのが面倒くさくなりましたね。私の居間にも亡くなったペットの写真、孫の写真など多く飾っているから見られたくない。いつのまにか家と家に太い壁が出て来たようです。京都をブラブラしたとき東本願寺前の住宅街を歩いたら、居間が道路から全部見えるのにはびっくりしました。ちゃぶ台にのってる食事もみんな見える感じでした。昔の家の床の低さでsぃようね。戸建ては塀をつくるのが当たり前ですから、生き方が排他的に見えます。渥美清のアフリカ紀行を昨日、読んでましたらだだっ広い中で、壁が欲しい「虫や蛇、野獣が来る危険もあって、壁が欲しいと。都会に来るとビルを含めて壁だらけ。入るときはIDカードで選別。小学校も玄関に監視カメラ。現代のワードは「こっそり覗く人間の跋扈」でしょうね。位置情報もONにしてると所在地バレバレ。