『元慶(がんきょう)の乱と蝦夷(えみし)の復興』(郁朋社)2017年10月刊という東北青森・秋田・山形・岩手あたりにたくさんいた蝦夷(えみし)たちの歴史と京の朝廷から平定のために派遣された武人たちの歴史について書かれた本である。普通、蝦夷(えみし)はアイヌと同一視する向きも多いが、土器を見れば北海道の南部の様式の土器が青森などと同じであるから交流はあったとはいえ、必ずしも蝦夷(えぞ)=アイヌとは同定していない。

元慶(がんきょう)とは平安前期、貞観の次の年号で天変地異と飢えで人心が混乱を極めて、秋田で876年起きた大規模な反乱事件である。この乱を蝦夷(えみし)の乱と位置づける人もいれば飢えに苦しむ農民(当時、米を納める人々は良民といわれたが)も相当数加わっていたはずだと著者は書いている。結果的には、良民たちは奥地へ逃げたとされる。私の浅い知識では縄文人の末裔が北のアイヌと連携して朝廷に反抗を繰り返していたのかもしれない。

そこで、きょうは、日本史や国文学でよく登場する菅原道真と中国の唐へ渡った空海が書き残した蝦夷(えみし)観を孫引きながら紹介しようと思ったわけである。現代でも東北人へ関西人が『熊襲発言』や『野蛮人発言』がけっこう多い。サントリーの佐治元社長も『東北を熊襲発言で失言して、宮城県知事へ謝った事件もあるくらいだ』。私も近所の関西人から『肉といえば牛肉のことよね、豚肉なんて関西では誰も思わないわよ。ふっふっふ』と言われたことがあり、不愉快な思いをしたことがある。私がスキヤキといえば子供時代、豚肉を入れていた話をしたことに嫌味を言われた。

京で東国の武士を野蛮人、文化程度の低い人たちと、今でも思っている人もきっと多いと思う。京都は田舎者の集まりだと言う京都生まれの人もいるのに。私の妹がお公家さんの末裔の関西人と結婚する予定であったが『3代前までの家系図を出して』と言われたところで父親激怒、破局した事件も身近にある。北海道に流れてくるわけだから、豊かで暮らしに困らない人たちが極寒の北国へ来るわけがないと知りながらのこの結婚はないことにしょうという目論見でもあった。後日、彼の母親が菓子折りを持って実家に謝りにきた。

学問の神様といわれる菅原道真(845年~903年)の蝦夷(えみし)観である。『辺鄙最もコウゾクにして、人となり、皆狼子なり。価直(あたい)甚だしく欺き眩ます』コウは犬の難しい漢字。蝦夷は野犬のように馴染まず、性情はみな狼の如く、取引では値をぶっかけて誤魔化す(73p)。昔から蝦夷の乱は、交易の不正から始まっているとも書いている。

一方、日中合作映画・空海(774年~835年)の蝦夷(えみし)観である。(出羽あたりの人を指して)『毛人羽人、境界を接し、猛虎ザイ狼、処々に集まる。老いた鴉(カラス)の目、猪鹿の姿。髷(まげ)の中に骨の毒矢を挿し、手には常に刀と矛を取る。不田、不衣にして鹿を追う。暗きになびき、明るきになびきて山谷に遊ぶ。羅刹の流れにして、人に非ず。時々、往人の村里来ては、千万人と牛を殺し食う。・・・・辺人常に毒を被る』(*羅刹・・人を食う子鬼)平安の文化に惑溺していた人から見たら、絹の衣を着た宮廷人から見たら、蝦夷(えみし)については他人や知り合い・噂から聞いた範囲から出れないのである。自分たちが暮らしている価値観、それを基礎付けているあれこれの制約される。今から1142年前の話ではあるが偏見の源や自分で何事も確かめもせず、自分で考えることをしないで、鵜呑みの習慣はいつの世にもはびこる。たとえ当時の天才といわれる空海においておやである。せめて『知らない!』と勇気を持って言いたいものである。

  1. 何かの理由で山で暮らす人にとっては狩りは日常で、危険を承知で命がけの暮らしでしょうし、里に暮らす人たちは作物を育てる事で日々暮らしを築いて来たのでしょう。一方、公家や僧侶など都暮らしや位の高い人達にとっては、それらの経験は全く無くとも暮らして行ける都合の良いルールを作ったのでしょう。現代に置き換えても、例えば東京に住む人達は何かの労働(頭脳)?で収入を得る事で、実際には作物を育てたり、漁業や狩りをする事も無く暮らして居ますから、太古の昔と何ら変わらない訳ですね。しかし都会に住む事がステイタスの様な風潮は比較的平和な時代だけで、一旦、災害や有事ともなれば都会は大混乱に陥る事は火を見るよりも明らかですね。便利さカッコ良さの裏返しは不便さ危険でもありますからね。東京暮らしが長かった父が高齢になって若い女性たちに何時も言っていたのは『ミニスカートとハイヒールだけはやめてズボンとパンプスにしなさい。イザと言う時に逃げられないよ!』と。大火や戦火や台風や水害や大震災など全て経験済みの上での警告でした。人間も基本は動植物同様に弱いものですから、生き抜く為には、あらゆる経験や知恵が必要ですね。その点、自然の中で暮らせる人は、都会しか知らない人に比べれば生きる知恵も身につくでしょうね。丁度今、東京都知事選の立候補者が所信表明演説で、或る有力?候補者曰く『首都防衛』なんてお題目を唱えて居ますが、彼女もスカートを履きヒールで闊歩して居ますから、かつての道真や空海同様に机上プランだけでの空論は、先ず己自身に自覚がない証拠ですね。手取り収入を増やすとか?都知事ともなれば、そんな手腕さえも実行できるんでしょうか?単なる票取りの為のお題目にしか聞こえませんが?。大きなことばかり言うよりご自分の立つ足元の安全を考えた方が良いのではないかと思いますね。高層ビルと言う重量物の下は空洞の都市づくりは取り返しが効かない東京ですからね。

    • 平安時代の階層と、現代の階層はそっくりですね。平安時代も地震や飢饉、疫病で多数の人が亡くなりました。短歌をつくる、蹴鞠をする、たくさん恋愛をする人たちの暮らしを支えていた農業や漁業や林業の人たち。ビルだけニョキニョキの都市はいずれ寂れていきます。不動産デベロッパーの罪づくりはヒドイものです。都市で掘られた土も捨てられる場所がなくて近郊で危ない災害を招く土壌の山をつくってます。最新ビルの中でパソコン使い、かっこういい設計をする頭脳労働者たち。たくさんの世界のビルの写真集を見ながら、オリジナルなデザインであっと言わせて業界で名前をはせる(万博の大屋根リンクプロディーサーみたく)。食べ物をこつこつつくる営み、自然の中で生きられる知恵の集積をする大事さが近づいてますね。「地震と火山」の本を寝ながら見てますが、富士噴火(富士山は4つの山が合同していました)も噴火する場所や穴の位置で災害内容は変わります。地震と火災発生で阿鼻叫喚の首都圏になりますね。

  2. 豚のすき焼は確かに北海道に来て初めて聞きました。しかし、牛のすき焼も田舎では中々食べれませんでした。ぜいたく品でしたから我が家では食べた経験がありません。親戚のおじさんが街中の有名企業の会社員でしたからボーナスが入ると私も呼んでくれて、又従弟たちと一緒にすき焼をご馳走してくれました。遠慮して居ると『もっと沢山食べなさい』と。言われるままにお腹いっぱい食べさせて貰って美味しかったですね。当時なら、きっと豚肉だったとしても自分には区別がつかなかったと思いますね。
    田舎で通常肉を食べるにも、通常は山兎や山鳥や鶏を食べる事が多かったですね。町まで30分も歩いて肉屋は1軒しか無かったですし、肉を買った事も無かったですね。兎や山鳥は野生のものを、鶏肉は卵を産まなくなった飼い鶏の首を父が絞めるのを見て可哀そうで食べられなくなりましたが、そのくせ、従弟とスキーを履いて早朝、ウサギ狩りに行き、三つ上の従弟がバンパ(雪用の板のへら)で、前日仕掛けた罠に掛かりもがく兎を一撃!。それを引きづって帰るとオジサンが皮をはぎ、囲炉裏で肉をすき焼にします。残酷な部分をスッカリ忘れるくらい美味しく、最高でした。まるで鶏肉並みでした。多分、こんな話を聞けば、牛肉しか食さない方々には野蛮人とでも言われるのかも知れませんが、月の輪熊でも猪でも猟師の鉄砲で打たれてトラックで運ばれた後は皆食用に成っていましたよ。猪肉は食べたような記憶も薄っすらあります。育った田舎には牛も馬も飼っている家は無かったですね。それだけに牛肉は貴重な食材でした。孫たちに『♬兎美味しい、かの山~』と説明しても『信じられない~?可哀そう?』と。言われてみれば、残酷な少年時代でした。

    • スキヤキは牛ではなくてやはり豚肉が好きです、シャブシャブも。子熊の肉鍋を食べたことあります。少し臭みがあるが美味でした。山歩きのバイトをしていたときに根室本線を歩く熊の親子が撃たれて町内放送で「上芦別駅前で熊肉を配布しています。欲しいかたは鍋を持ってきてください」。宿の女将さんは鍋を持って走っていきました。夕食は熊肉と我々が山から持ってきたキノコの合わせ鍋。贅沢でしたが、ハンターがどこからともなく出てきました。田舎者が集まって都市をつくってるだけで、根本は自然の中でイキイキする人たちかもしれません。それに期待しましょう。包丁さばきも素晴らし人いますよ。

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