『働いていないときの過ごし方が、その人の働きや知見や知性やいざという時、その人の振る舞いを決めていくかもしれない』と40年のサラリーマン暮らしで発見。地下鉄を待つ間もロバート・ラドラムの推理サスペンスを読み続けてきたAさんは仕事にも遊びにもエネルギーがあったし、アイディア豊富。思ったらすぐに実行する。そしてよく遊んでいた。遊べば話題も豊富で社外にたくさんの友人がいた。酒も豪快で割り勘はしない。全部自腹を貫いた。タバコは吸うし、マージャンにも強い。ゴルフも上手い。何より一生懸命生きない男を嫌った。

私が入社早々、ガン企画で、東京に本社がある抗がん剤メーカーに営業をするため3泊4日の出張を相談したら『勉強だ、勉強だ、行ってこい!』と尻を叩かれた。結果は赤字の営業だった。報告に行くと『それがいずれいい経験になるよ』と励まされ、注意はなかった。14万円の出張費用で、成果がブリストルマイヤーズスクイウ(いまでも存続しているのか)から5万円だけ(こういう数字だけは覚えている)。イベントは医者二人の対談、テーマは「ガンになったときの生き方」とシビアな内容だ。イベントにはお金がかかる。ホールの使用料・対談者への謝礼、さらに対談内容の報告紙面するためのお金も必要だった。

ところが、札幌で営業をするとと『わざわざ本社まで営業をしてくれたんだ』ということで各社から協賛料をもらえた。A氏の『勉強だ』がなければ、シンポジウムは開催できなかったと思う。A氏の柔らかい頭脳と判断に助けられた。さらに社内での愚痴を一番嫌った。一匹オオカミ的な人間なので社内営業は下手で役員にはなれなかった。誰もが実力からいって役員になれる器と思ったが、仕事ができない・社内営業しかしない男たちの嫉妬に阻まれて定年を迎えた。社内営業達者な男が役員に就任。しかし、『うちに来ないか』というスポンサーからの声もかかって、車の輸入ディーラーの社長室に収まった。若手の営業マンを育成しながら自ら輸入車を何台も売った。

あり余る能力は『グループホーム』の立ち上げ仕事にも協力、最後はホームの管理人をしていた。残念ながら肺がんを発症、病院情報に詳しい道医師会の友人からのセカンドオピニオンを拒否し、69歳で亡くなった。仕事→遊び→仕事→遊びという公私を分けない生き方を貫き、推理小説を片手に走り回る。好奇心や『これはイケル』と思ったら『見る前に跳ぶ』人であった。大陸から渡ってきた両親のもと福岡で生まれ、どんな事情か知らないが北上して、小樽まで来た。高校時代はスキーのジャンプ選手で天狗山のジャンプ台で飛んでいた。『そうか、飛ぶのが好きだったんだ!』ここまで書いて、妙に納得する私であった。飛ばないと、新しい世界は現れないし、仕事と遊びの混同が素敵な大脳をつくったんだ。『働いていない時間をどう過ごすか』のヒントがありそうな先輩であった。大脳は前向きにぐるぐる回り、足も動いていたのである。そして手も口も。死ぬまでジャンプを続けていたんだ。豪胆な大陸浪人風の男であった。もう一度、会いたい人だ。

  1. いい人は、何故か?残念ですが長生きしない場合が多い気がしませんか?。しかしご本人にしてみれば、やりたい事を全速力で駆けぬけたのかも知れませんね。長距離を耐久力だけで生き抜くか、それとも短距離を全速力で生きるかの違いでしょうね。どちらも立派な生き方ですが、名を遺したり、実績を残したりした裏には、他人には見せない努力なり才能が隠されているのでしょう。いずれの生き方にしても自分自身が成し遂げたい事のどれだけを達成できたかは、ご本人以外には分からないのでしょうね。バランスの良い生き方とは?必ずしも聖人君主的では無いと思いますね。勉強や仕事ばかりで遊びを知らずに一生を過ごすか?それとも遊び半分と言えば聞こえは悪いですが、自分自身が生きる中で、納得できるバランス配分が出来たら最高でしょうね。

    • いい人は長生きしないのは半分本当ですね。いい人の定義にもよりますが、無様な長老政治家を見過ぎているせいかもしれません。別に何を残さなくても、いい家庭も立派な作品ですね。ぼそぼそ家の中の片づけをしていても、いい時間んを過ごしているわけですね。さっきまで庭のバラの選定と歩道に落ちたウツギの花びらを片付けていました。散歩する近所の知り合いに「花もゴミです」と冗談。自分もよくまあこの年齢まで生き延びてきたと感謝ですね。親や社会に感謝ですね。心筋梗塞で一度は死にかけた身ながら、しぶとく血液を全身に送ってくれています。これがないとブログ書いたり、返信書けません。

  2. 仕事半分、遊び半分を自負しては居ますが?果たして実現できているか?と言えば疑問ですね。田舎育ちの私などは、遊びは罪悪で仕事は立派な事と幼い頃から植え付けられて来ました。ですから遊びながらも多少の罪悪感もあって、つい仕事優先になりがちですね。それでも父親が田舎の人達とは違って田畑もよそ様の半分、炭焼窯もよそ様の半分の50俵窯。従ってよそ様が働いている半分しか働かない訳です。働かない時間は早朝の鮎釣り、日中の働かない時間は詩を詠んだり、出かけて若いサークルに混じって絵画を楽しんだりと遊びも半分でした。私も野良仕事や山仕事の手伝いをしましたから手伝いと遊びに明け暮れ、勉強は二の次、三の次でしたね。つまり仕事三分の一、遊びも三分の一、勉強も三分の一と言う訳です。一方竹馬の友はサラリーマン家庭でしょっちゅう遊びに誘いに来ましたが思う様に行きませんから、如何にそっと抜け出すかばかりを考えて居ました。私達田舎の子供の遊びは危険な事ばかりで親が知ったら仰天する事間違いありません。でも当時の親は放任主義でしたから、平気で悪さばかりしたものです。悪さくらいスリルがあって楽しい事はありませんからね。そんな経験も大人になって多少は役に立っているのでしょうか?今も仕事は嫌いではありませんが、遊びに夢中になれたあの頃の様には行きませんね。

    • 遊びに夢中は豊平川でのウグイ取りや円山幌見峠のヘビや昆虫採集、野幌原始林で不思議な蝶の採取、シオカラトンボ、創成川でトゲウオ採取、北大の中央公園でウグイや、カメ。医学部の地下にいた野良犬をいじめて遊んでました。この犬たちが解剖に使われるんだと話してました。大江健三郎の小説に学生時代、死体を空気に触れさせないよう、棒で底に遺体を沈めるバイトが1万であったと記憶してますが、いい仕事だと思いました。生まれた自宅が北大の前でしたから、もう少し長く住んでいたら小遣いで大儲けできたかも。

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