私たちは講釈が好きだ。要約するのが好きで、単純化するのが好きだ』
『私たちは講釈が好きだ。私たちは要約するのが好きで、単純化するのが好きだ。ものごとの次元を落とすのが好きなのである。』(ブラック・スワン上126p、ナシーム・ニコラス・タレブ)。ブラック・スワンは文字通り黒い白鳥で、白鳥は白い鳥だと思い込んでいるがある日、黒い白鳥が現れたらこれまでの思い込みは間違いだと素直に認められるかどうか。歴史や日々の日常で突然出現する日常の切断がどの人にもある。時間は昨日のように今日は流れない。しかし、私たちは何事もわかったように、そういうリスクを度外視して『講釈したり、要約したり、単純化』して他人へ説明したり語っていないか?あらかじめ自分の大脳にある観念(プラトン性と表現される)を変えることなく生きている大多数の人々。しかし、『歴史はジャンプをする』。偶然的な出来事が起きて、それが以降の自分の生き方や世の中や歴史や国の生き方まで変えてしまう。交通事故に遭遇したり、身内の突然死、災害の勃発、大地震、原発メルトダウン、殺人や企業倒産、国家破産や内乱、難民になる、伝染病の感染、飛行機事故。事故に関係なくてもウィンドウズ95の出現などもそうである。歴史が違う次元へジャンプする。意識の中では均一な時間の流れではなくて、流れが止まったり、後退することもあるかもしれない。突然の未来へのジャンプが始まる。講釈や要約や単純化ができるのは、著者によれば、昨日・今日・明日と均一な知識や思い込みや自分で考えることをしない人たちだと言う。目の前の事実をしばらく言語化しないで黙って見てみる、言葉や観念のオブラートで包まないで見るのは相当な力技である。そこへ解釈を入れないで黙ろうと提案する。新聞やテレビから遠く離れると、ある友人曰く『世の中が新鮮に見える』。しかし、その世の中を彼は何で見ているのだろうか?パソコンのニュースサイトからだろうか?だとしたら、パソコンニュースも恣意的に選ばれて決められた文字数(単純化)に収まるよう書かれている。しかも多くはテレビや新聞記事のコピーである。ほとんどが、どこかの媒体の記事・ニュース借用で、捨てられたニュースのほうが実は多い。記事の見出しや何行かのタイトル名で『ああ、あれね』という判断は避けていきたいものである。
アドマン。
多くの話題は、殆どが他からの受け売りの場合ばかりですね。誰かがこう言っていたから多分正しいのだろうとか、あのメディアで知ったから大丈夫だろうとか、『だろう』が拡散されれば、あたかも真実のように語られるから恐ろしいです。ですから、すべての事を『かも知れない?』程度に認識して居れば、大きく間違う事も無くなるでしょうね。話半分とまでは言いませんが、全てを鵜呑みにする事だけは避けた方がいいですね。勝手に解釈して、勝手に端折って、勝手にアレンジして、勝手に継ぎ足して、勝手に他言すれば、伝言ゲームよろしく、最初の意味から相当かけ離れた話が出来上がりますから、そこまでなら未だしも、次の他人がまたアレンジすれば、全く違うかけ離れた話題にすり替わる事だって考えられますから怖いですね。受け売りを恰も自分の言葉に置き換える事は非常に危険ですね。
seto
まったくおっしゃるとおり。受け売りばかりです。かもしれない。実は宗教もすべて『かもしれない》で人々が信じれば、アバウトも良し、ほかの宗教も良しになり平和が訪れるかもしれませんね。ネットの世界は、噂話、勝手なストーリーで溢れています。私もブログで引用がありますが、どこからの引用かページ数を書くようにしています。引用された本に興味が出て、買ってくれればいいなあという気持ちもあります。ほとんど正体不明な話や語る人が見えない世界です。大昔の本を読むほうが健康にいいですよ。