山東省・炭鉱・中華(その2)
「張さんの思い出」その2
さて、山東省から道内の炭鉱に連れてこられた張青年の生活ぶりや、北海道の山
中での逃亡生活がどのようなものだったのか。本人が語らないので詳しいことは
わかりません。ただ、逃亡生活は終戦を挟んで約2年間に及んだそうです。そし
て姿を表した張さんは、ススキノでお店を出します。場所は、今で言えばススキ
ノの顔ひげのニッカの大看板の向かいあたり。現在のような大型ビルが建ってい
なかったとはいえ、繁華街の表玄関に「餃子会館」の名前で開いたお店は、我々
より年配の方から聞いたところでは、当時有名なお店で、相当繁盛したとのこと
です。
その後、一気に開発が進んだ場所ですから、いつまでも餃子会館を続けてはいら
れませんでしたが、張さんは料理人の道を歩み続けました。我々が張さんと初め
て出会ったのは、万寿山飯店というお店でした。ここのオーナーはやはり山東省
出身の高さんというコックさんで、日本に手打ち麺を伝えた人物。日本人の手打
ち麺技術者はすべて高さんの弟子か孫弟子に当たると言われていました。西の陳
建民、東の高振祥と称された名人で、張さんはそこのナンバー2でした。今思え
ば、山から出てきた張さんがいきなりお店を出せたのは、山東省出身の華僑仲間
のバックアップがあったのかもしれません。
我々が張さんの苦労談を知ったのは、新聞記事でした。いつもカウンターの中で
ニコニコと応対してくれる張さんが、よもやそんな体験をしてきたとは思いもよ
りませんでしたから、多分常連から何度も同じことを質問されたでしょう。私達
が尋ねても、ちょっと照れたような表情で
「もう、どうでもいいことヨ。日本人はいい人ばっかり。気にしなくていいネ」
と言ったのを覚えています。おかげで私も、戦争中の出来事は聞いてはいても、
全く気にかけずにこられました。当時の日中関係は、そんなものだったと思いま
す。むしろ最近、当事者がほとんどいないようになってあれこれ騒がしくなって
いますが、今頃張さんが草場の影で困惑してるんじゃないかと思います。
アドマン。
徴用工などで苦しんだ人達も、ようやく日本の中で日本人相手に商売もできるようになって良かったですね。そこまでの道のりは一口では表せない程大変だったと思いますが、きっと陰ながら支援する同郷のお仲間も大勢いたのでしょう。今度は、私達日本人がそんな人たちに温かく接する事によって、ご本人たちのわだかまりも徐々に融けていくのでしょう。一時代の汚点ですが、真実を知らない私達には普通に接する事しかできません。しかし、それがせめてもの過去への償いになるのかも知れませんね。
seto
普通に接する・・ですね。私の住む町にも留学生が暮す寮があります。主にベトナムとか東南アジア系です。自宅の前も通ります。必ず、あいさつをするようにしています。戦争で肉親や親戚を失った、殺された人たちはずっと記憶として子孫へ伝えられます。ウクライナとロシア、イスラエルとパレスティナもそうです。新疆も中国漢人へ、チベットもそうです。沖縄にしても本土の人間に強い違和感を持っている人も多い。