知人の元銀行マンが退職後,除雪機械のリース・補修する企業に勤めた。これまでの営業仕事から『定時制に通う高校生』を入社してもらうため、定時制のある高校まわりをしているとのことだ。札幌なら道立の東・西・南・北高校、札幌工業高校、琴似工業高校、NHK通信に定時制もある。教員室(普通科の教員とは別室)に入り挨拶をして、企業カタログを見てもらう。ご存じのようにどこでも人材難。土木はじめサービス業に多数の企業が定時制高校に求人票が殺到している。たとえば30人の定員のところに200社が来ているとのこと。「とても私どものような弱小企業はネーミングで太刀打ちできないですよ』。「本州も視野において、定時制高校周りをしようと思うと』展望を述べた。生徒全員卒業していくわけではなくて20%以上が退学していくらしい。いろいろな家庭事情があって、働きながら夜間学校に通う子供たち。面白そうな、社会的な意義のある仕事だなと思いつつ、色々提案をしてみた。「本州の定時制高校の場合、災害の少ない札幌に住み、2カ月に1回はAIR DOと提携して飛行機で往復させる。ご両親も北海道観光も兼ねて札幌に呼ぶ。できればひとり採用ではなく複数採用をすると精神的に落ち着きますね』『まだまだ勉強をしたければ、北海学園大学の夜間もあるから通い通わせたらいいですよ。金銭的な補助を含めて』

大学生の青田刈りを企業は進めているけれど、定時制高校生の世界もまったく同じ現象が出ているわけで、次の求人先に考えているのが東南アジア。娘婿がダイハツの車をマレーシアで車づくりをするために、中津の工場でアパートを借りて4人くらいで共同生活をした話もした。

  1. 実は、誰にも余り話してはいなかったのですが、私も、その定時制高校出身者です。同級生たちは殆どが隣の市の県立高の普通科受験でした。しかし受験に失敗した友も居て慰めようもありませんでした。では、私が何故?皆とは別の道を選んだか?と言えば、反抗期もあり、中学の時から早く両親と離れたいと思った事と、当時の家業が半農半林で現金収入が極端に少なく、経済的に困窮していた事を子供ながらに心配しての理由からです。ただ、両親と離れるには実家から遠い土地に行かなければなりませんし、しかも自立するにはお金も必要ですから、前々からの計画で、働きながら学べる全寮制高校を探していました。そんな時に丁度、自分の思いに適った高校が見つかりました。県立で四年制の全寮制の夜間では無く昼間定時制でした。通常の定時制とは違い、全校が半々にA班、B班に分かれて、各班が一週間交代で通学と、大手繊維工場各社での一般社員に混じっての労働をすると言うのです。即、願書提出し受験し入学しました。全寮制ですから全員寮生活ですが、初日は知らない3名の同室者にも中々慣れず、あれほど嫌っていた両親でしたが、さすがにホームシックになりました。しかし僅か数日で友達も出来て慣れました。一方、社員と同じ作業服での工場勤務にも戸惑いましたが、私の場合は手先の器用さが買われてか、肉体労働ではなく、撚糸工場で夫々の巻き糸を刺すスピンドルの先端部で回るフライヤーと言うパーツを別室で正社員のオジサンの指導の下、ピアノ線で作成する手作業の仕事でした。廊下を隔てて向こうはその部品を必要とする、撚糸機械群が轟音を響かせ稼働する大工場でした。また、翌週は普通の高校同様に学校での授業や部活でした。最初から進学はしないと決めて入ったので、工業科を選び、当時出始めたプラスチックの製造実験や学校に数台有る豊田織機を使っての繊維製品のジャガード織などの組織図デザインや、実際に織り実験もしました。学生寮はと言えば、男子寮と女子寮を勤務先でもある繊維企業各社が無償提供してくれていました。食事は、朝昼夕とも栄養管理士の居る社員用大食堂で食べさせてくれました。当時の食器は自分で洗って返す癖が今も身についています。給与は授業料や食費など必要経費を天引きして支給されて居ましたから困りませんでした。お蔭で親からの仕送りは四年間でたった一度の500円だけでした。それでも若い時には欲しいものも多く、多雪地帯でゲレンデも近かった事もあり、本格的なスキーが欲しくて中古自転車を500円ほどで手に入れ、仕事前や授業前の早朝に朝日新聞の新聞配達を200軒ほど配って得たバイト料で、同寮のスキー部先輩から外国製のスキーセット一式を譲って貰いました。残念ながらこの高校も現在は隣の高校に編入されて今は無くなりましたが、学業と仕事を同時に身に着けられ、しかも経済負担も少ない方式の公立高校は、社会人として世に出る前の若者達の中には必要な人も居るのではないでしょうか。同窓生の中には全国各地からも来ていました。同寮の先輩には進学した人も居ましたし、そのまま働いていた繊維関連企業に認められオファーの後に就職した人も居ました。企業としては学生が働く姿を見て適正診断もできますから、適不適も分かり、学生が希望なら採用の為の面接も不要ですからね。各企業の最終目的は若者の採用の為の投資だったのでしょうね。校庭の片隅の大きな岩に刻まれていた『働学一如』の文字を思い出します。今では、このような形態の学校は公立高校としては難しいのでしょうか。繊維大手企業の集積地でもあった事と、当時の各企業間の連携と、当時の県の教育委員会の理解も有ったのでしょうね。人手不足が問題の現在、企業間の協力とアイディアが求められますね。

    • 「働学一如」。まったく現代、忘れられていることですね。私が中学生のころクラス50人でしたが、すぐに働きだす人は7人ほどいました。クラス会を開けば半分は参加してきました。仲が良かったですね。そもそも両方の親がいなくて祖母に育てられたクラスメートが二人いました。家庭訪問で担任がきたとき、座布団や新しい茶碗を近所の人たちが貸して、恥をかかないよう配慮しあった地域でした。貧しい暮らしはお互いさまの時代です。そういう時代の記憶は鮮明に思いだしますね。それにしても親元を15歳で離れて、全寮暮らしから開始して、繊維工場で働きながら学んでいたとを初めて知りました。無我夢中の青春時代でしたね。さらに音楽やデザインや手先の器用さが開花した時期でもありますね。新聞200部配達もすごい、私は100部がイッパイいっぱいで1年続けました。1部80円の給与。昔の少年さんの子供時代からの苦労は、いまも確かに生きています。ますます、それが生かされる・発揮される時代や社会になっていると思います。どうかそれを周りの人たちに伝えて、残されるよう願うばかりです。

  2. 苦労と言えば、私などとは比べようも無い人達が大勢居る事を後に知りました。中でも或る焼き肉のたれの大工場を持つ大手企業の会長さんは小学生の時に親から土地を借りて自力で野菜を作っていたそうです。収穫期にはその野菜をリヤカーに積み、街まで引いて行き売ったそうです。しかもその野菜を売り上げたお金を土地借用料として何年も親に返したそうです。さらに成人するまでの苦労は有ったのでしょうが、自力で焼き肉のたれの会社を設立して地道な苦労の末、一代で大企業にまで成長させました。

    • 雪印の黒澤酉蔵さん夫妻も、リヤカーで当時は市民が飲んだこともない牛乳やチーズを売って歩いたと言います。そういう苦労の積み重ねでいまの雪印(メガミルク)があるわけです。調べれば創業者の苦労はなみたいていではないと言えますが、月とスッポンくらい違う苦労だったとおもいますね。実際、体験した人とそれをただ、言葉だけで語る人では全然ちがいますね。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です