ローマやベネチアには飽きたという話。
同業者が退職の記念旅行にイタリアへ行った。帰国して「はい、これ、お土産」と私にミラノで買ったイエローブランド品のネクタイ。1か月後、ラーメンの汁をつけてしまったが。「イタリアは飽きたよ。どこへ行っても教会と彫刻とステンドグラスや天井画でね」。どれを見てもいっしょ。サッカーの試合やバスケットの試合を見ていた方が楽しいと。
彼は油絵が小さいころから大好きで、一度、カルチャーの油絵教室の発表会で彼の自画像を見たけど、玄人はだしのいい顔つき・色彩だった。こういう率直な感想ってなかなか言いにくいもので、先日も万里の長城へ行った人から、雄大で素晴らしいけれど、トイレがね。トイレが水洗にならないと中国へは行きたくないな。政治や民族の話ではなくて、もっと生理的なレベルの話。
イタリアの観光ガイドブックにまさか「イタリアはどこへ行っても教会と彫刻と宗教画が溢れていて、関心のない人はどの町を旅しても飽きますし、オリ-ブオイルでお腹を痛める人にはお勧めできない国です」とは書けない。ローマも掘れば掘るほど古い時代の遺跡が出てくるとはいえ、関心のない人は「だからどうなの?」でチョン。それより観光地にいるロマ人(ジプシー)は国籍どこなの?
勉強し過ぎで行くときは、知識で概念で先入観を先に入れてものを見てしまう。「えっ、そんなこと、あなた知らないの?」という返答が帰ってくる。知らない方が対峙した人の五感に直接ぶつかると思わないのだろうか?そっちの方が衝撃が激しいだろうと思う。
私は京都へ3回行ったが、金閣や銀閣を見たこともない。1度目は大学入学のため下宿探し(結局入学断念)、2度目は京都で女子大生殺人事件があって娘が心配で京都へ。3回目が娘の大学卒業式参加。高校の修学旅行は不参加でもあって金閣・銀閣へ行ってない。どこへ行くかというと、国立博物館や美術館。博物館は1日いても飽きない。私にとってここは苦手な日本史の教科書みたいなところだ。あとは普通の市民が暮らす家々を覗いて歩く趣味だ。歩道から家の中が丸見えの住宅が多くちゃぶ台を見たこともある。狭い道をキョロキョロ歩く。
バスに乗ると、花を持ったおばさんの京都弁を聞ける。寺が多くていつもどこかで行事があるのだろう。乗ってはすぐに降りる。古本屋周りも飽きないし、錦市場も大好きだ。妻から電話で「せめて、清水寺と三十三間堂は行きなさい」と言われてしぶしぶ。ホテルの土産屋で女主人に話しかけると、自分の由緒正しい家柄自慢が始まった。金沢の前田家に仕えた〇〇で、その子孫が京へ〇〇移り住んでとか止まらなくなる。京都育ちの人も「京都はもともと地方から来た人の集まりだよ」と言う(松岡正剛)。
こんな話をし過ぎるから部落差別がなくならないんだよ・・と突っ込みたくなる。北海道は、食えなくなった全国の町村の団体が下級士族ごと入植したり、一発当てるための野心家、流れ者(囚人たち)が集まってできたところ。差別に苦しむ人がいたらどんどん北海道へ渡ってきなさいと、言いたくなる。
旅の話から、最後は北海道に来たらという話へ。思い込みから、あらかじめの偏見(知識)からどれだけ自分たちの生き方が狭くさせられて、自由な感性を失ってるかという結論です。
昔の少年。
海外旅行に頻繁に行ける人は羨ましい反面、何故?そんなに何度も海外に行けるのか?と、何故?何度も何度も行きたがるのか?と思います。確かに行けない自分のヤッカミも有りますが、かと言って海外慣れしたようなツマラナイ感想は裏を返せば自慢話の裏返しの様にも聞こえますね。どうせ行くなら感動できるような旅や、知らなかった事を初体験できるような旅などができればいいと思いますね。そう言う自分は未だ行けませんが、旅の途中と言うか、それとも途中のままと言うのか、北海道に移住して半世紀。余程居心地が良いのか?動こうとしません。海外旅行者でも、そんな人もどこかに居るのでしょうね。
seto
私も動かないほうで動くと博物館や郷土資料館へ行きます。海外旅行は行く年齢や、関心のあるなし、教養の度合い、その人の性格が大きく影響します。ヨーロッパは歴史好きならいいでしょうが。私は道内でも行ったことがなところばかりです。札幌に生まれてそのまま4近郊に住んでいるだけで、本のおかげで海外旅行をさせてもらってます。旅は誰に出会うかわからないのが面白いでしょうね。