母の言葉、父の言葉。時代。
大正12年生まれの田舎の商家で生まれて、16歳で大阪の子供のいない親戚に預けられて淀屋橋にある女学校に通い、宝塚通いもしていたが、大阪空襲で北海道に帰り、お見合いが待っていて、結婚。私を含めて3人の子供をもうけた。バブル真っ盛りの折、実家を訪ねると大好きな社会批判をする。
「汗をかかないで儲けたお金は身に付かない。現代のように株で儲ける時代は長くは続かないし、こつこつまじめに働きなさい」と。会社では「株をしないのはサラリーマンではない」ような風潮で仕事中にもかかわらず、社長先頭に証券会社のガラスの向こうの株式市況を見に行くやらひどかった。仕事をしないのである。
「取引先が上場するから株を持たないか」(これって今ではインサイダー取引)「あそこのゴルフ場会員権を買うといい」とゴルフ好きな営業マンが総務へ進言、購入したり、トマムリゾートの利用会員権を買ったりしていたが、筆者は何一つ利用することも無く、他人事のようなバブル期であった。私のようにバブル期にも関わらず、株に関心なく、ゴルフもせず、広告代理店の営業マンとして、毎日毎日厳しい営業の日々を送った人間からしたら、他人事のような時代でもあったのである。
父の戒めは「株をするな、連帯保証人にはなるな」の二つ。私たちは時代を「ああいう時代だから、みんなこうなんだ」と思いがちだけど、全く関係なく生きていた人が圧倒的に多かったのである。貧しい人はやはり貧しかった。金持ちはさらに金持ちになっていった。株で失敗しても、もともと預金の全額を使ってるわけではないから、穀物取引などの先物をしていなければ、暮らしに大ダメージを与えない。土地を担保に人へ企業へ融資をし続けた金融が圧倒的な負債を負った事件なのである。
派手な「ジュリアナ東京」の踊りも実は地方都市では関係のないイベントで、報道は何か時代を象徴する事件やフィルムを出さなければいけないので、実はそんなバブル期は知らない、何も大きな事件はないよというとニュースが作れないから流すけど、人工的に3程度のニュースを10や20にかさ上げして大げさに作るから報道には気をつけたい。
中学時代に「ビートルズ」が流行っていたが、クラス50人でビートルズを聴いてたのは私を含めて4~5人の男たちで、大半は西郷輝彦や当時のグループサウンズを聞いていたのが実態である。1969年の学生運動にしても大半は私もそうだが、ノンポリ(非政治的人間)が多くて、彼らはテレビの画像には映らないので存在しない学生みたいだ。兄も1歳上で大学生であったが、大学紛争の余波で1年間は授業停止。実質3年通って卒業している。私は7年在学で中退した。いい加減な時代だったのである。
そんな私でも結婚後3回の転職を経験したが、どうやらこうやら生きてこれた。30代はじめ「1000万円の給与を支給するから病院の事務長にならないか」「デパート内の広告会社の営業部長にならないか」と誘いはあったが、「美味しい話には裏がある」ので断った。
案の定、その広告会社は倒産、病院は財産をめぐる親族の争いが勃発してほかの病院へ売却。地味ながらコツコツまじめに働くのがベターだ。「ある時代を一言やひとくくりでまとめる言い方は必ず間違う」と言っておきたい。「時代を貫いても生きていける生き方は、大昔からそんなに変わっていないものである」。農民を見習いたいものである。
アドマン。
バブルもありましたね。私が広告の仕事をしていて同じ東京の広告会社の社員たちはマンションを買って高額で売って利ザヤを稼いでいましたし、地元北海道の広告会社の大卒ホヤホヤの営業マンでも土地を転がして大儲けしていた輩も居ました。一方、私と言えばバブル以前に古い平屋の家を遠い親戚の叔父夫婦が定年で京都に帰るから買って欲しいとの事で高利な銀行金利時代に購入も、バブルの兆候でうなぎ上りの変動型金利にウンザリしていた頃、大手不動産系から高額で買い手が付くからと言われ、古い住宅にメンテ費用もかさんでいたので、新築建売のモデルハウスを見に行き購入。売れた資金で頭金を多めに入れて、ローンを組み直し、毎月の負担を軽くしました。が、その直後バブル崩壊。ギリギリセーフでしたが、高台の古い小さな平家が宅地の広さ故に比較的高額で売れて助かったバブルでした。あのバブルって?一体?何だったのでしょうね。未だに分かりません。
seto
私はバブルに全然興味なく、それなりの給与をくれる企業に転職出来て(68人受験して合格は私一人でした)、もうそれだけでありがたい心境でした。古参社員はヤレ●●企業の株だ、ゴルフ券だ騒いでいましたが、どこ吹く風でした。社長から毎日、太平洋証券のガラス窓に表示された株価を見てました。証券会社に営業に行くと、私に99人しか持てない株があります、100万で持てますと言われたが不正のにおいがするので断りました。うまい話は怖いのです。お天道さんが見ています。東京へ営業に行ったとき、ジュリアナ東京見学を誘われましたが、体が疲れて断りました。激しい踊りなんかできません。新聞社横のホテルでグーグー。人生で寝るのが一番好きみたいです。
昔の少年。
父も母も東京大空襲で財産一切を失くして田舎に疎開したので、戦争すら知らない私には、その苦労など到底理解できないのですが、幼心に我が家は他家に比べて貧乏だとは感じていました。が、しかし、その割に贅沢な一面も味わいました。田舎では食料に苦労はしませんでした。近い親戚も遠い親戚も殆どが親切でしたし何とか暮らして行けたからです。それに農業や林業など身体を使って働けば自給自足に近い暮らしが可能だったのです。自家窯で木炭の製造、割り木の製造、米や野菜類も作れて、秋には干し柿を家族で作り、農協に買い取ってもらい収入にもなりました。父に田舎が有ったからこそ我が家も助けられたのです。派手な都会と違って毎日コツコツと働く田舎暮らしでしたが、鉄道員やサラリーマン家庭はひときわ裕福で羨ましかったですね。竹馬の友の家は両親ともサラリーマンで彼が遊びに誘うのですが、農作業などのノルマを父から与えられて十分に遊べない事が悔しかったですね。それでも父の目をごまかして遊びに夢中になった少年時代でしたね。
seto
都会の暮らしはとにかく金がかかります。食品しかりです、それでも市場(いちば)があって安く買っていました。鍋に入れて魚を買ってきたり、父はニシンを山のように積んで銭函から帰ってきました。現代より、食べ物が超安い時代でした。丘珠へ行けばタマネギをタダ同然に買えました。サッポロビールでビート積みのバイトもあり、お菓子工場でもタマネギの切り取りバイトもあり、日銭稼ぎには事欠きませんでしたね。古谷製菓や福山醸造でも働いてました。考えてみると現代と変わりません。違うのは直接雇用で、中抜きの仲介者がいなくて労働環境がすっきりしていることです。労働の正しい姿ではないでしょうか?早くこれに全員がきづいてほしいことです。・