仏教と散骨、法名。
お寺の住職さんの息子に生まれた友人が送ってきたお話です。東本願寺の檀家から逃げたい私、自然葬で散骨したい、市の集合墓地を考えている筆者に、仏教の原点から考えた戒名や骨の話です。彼は現在はお父さんが死去されて、後継ぎはしていません。
仏教はもともと、舎利(釈迦の骨)を供養すること
仏塔を建てること、の2つを重視する宗教で、仏像などは禁止されていました。
これはあくまで僧侶の話で、一般信徒は土葬されて墓もないのが普通でしたが
経済成長の頃から、一般人が王侯貴族や分限者のように
墓を建てるのが流行り出しました。
だから散骨でも、仏教的に問題はないのですが、
遺体や遺骨を太陽の光に晒すことだけは、中国で最高の辱めとされていたなごり
があって、禁忌とされてきました。
ついでながら戒名も一般人がないのが当たり前。親からもらった名前を
位牌に書いて拝めば立派な供養です。
戒名は法名とももいい、斉天大聖が三蔵法師の弟子になって
受戒し孫悟空という法名をもらったのと同じように
俗名を捨てて、僧侶の弟子になったことを意味しています。
大分限者でもない限り、本名のままか、寺でもらった
質素な戒名をつけていたのですが、
これも経済成長のころから、金を払うから位の高い戒名を付けてくれという人が
出てきました。そこで、三蔵法師と一緒に天竺でも行ったかのような
戒名の人がぞくぞくと登場しました。
このへんまではしかたがないのですが、最近、自分で戒名を付ける人が
出てきたのはちょっと危惧しています。戒名には宗派や師匠の系列などが分かる
ようになってるので、自分でつけると光宙(ピカチュウ)君のような
痛い戒名になってしまうか、学歴詐称のようなことになって
後世の笑いものになります。俗名で十分なんですけどね。
どうも、仏教でも特に古臭いスタイルの門派に属していたので
気になることが多いです。
明日は第2回目です。
昔の少年
僕のお爺ちゃんもお坊さんでした。長男坊の僕の父は坊さんを嫌って家出しました。東京で所帯を持ってにわかクリスチャンにもなりましたが田舎に戻ってからはさすがにキリシタンの人は居ないし教会も無かったので無宗教になりました。でも亡くなった時は仏式の葬儀を挙げました。法名もおじいちゃんと深い関わりのある武生のお寺でいただきました。遺骨の一部はそのお寺の建物内の納骨堂に、もう一部は田舎のお墓に、もう一つは京都の東本願寺本山に納めました。何回忌かの法事の後は、お寺にもお墓にもお参りしないでここ数年が経ちました。僕も無宗教ですが、武生のお寺「超恩寺」は好きです。中庭を囲む渡り廊下があって本堂には立派な間口に収まる巨大な仏壇と太い柱に、いたるところに見事な透かし彫り。国宝かと思わせるたたずまいさえ感じる。無宗教の僕にも幾らかのお爺ちゃんの血が通っているのだろうか。