原点に帰って。ブログ250本目に。
3月18日から始めた「太古につながる生活者の目」はきょうで250本。3月20日に書き、6月16日に90本記念で再録した立花隆「エーゲ」について書いた文を再再録します。
立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。
20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)
立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。
日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。(以上が3月20日に書いた。以下は新しい文章です)
*一度、江戸時代の学者富永仲基(なかもと)について、病気さえしなければ、彼は世界で初めて固有名詞(人物名)を出さない歴史を書いたかもしれないと述べた。どんな歴史になるのか、果たしてそれを歴史と呼べるのかという疑問も沸くが、立花隆の「エーゲ」にも書かれているが、書かれない歴史、語られていない歴史、痕跡も残さない歴史が実は大半で、我々が知ってる歴史は言い方は下手だが、砂粒程度でしかない。簡単な話、昨日、自分が起きてご飯を食べて通勤して誰に会い、何を話して、夕方は誰と話して帰ったか。それを全部正確に再現することさえ不可能だ。それが狭い日本の国土で1億3千万人がいて、生があり死があり、事件があり、芸能・スポーツがひしめき、さらにラインやフェイスブックもやり、意見交換をして寝る、そして朝が来て・・・・。しかも、人の頭の中にある観念まではわからない。
しかし、その営みは大昔から大脳を持って活動する我々の先祖からつながってることで、書き言葉の出現で1%が1.5%くらい後世に残るようになったかもしれない。あとは口伝だ。ここまで書くと、私たちは巨大な虚無の中で生を営んでいるようにも思える。しかし、どこかで太古の生活者につながりたいという筆者の思い、それは常識だと考えて思考停止になってる部分に、思考の運動を再開させる一助になれば いいなと考えるブログであり続けたい。
昔の少年
酒の席で戦国の歴史を滔滔と語る奴がいた。あたかも自分の目で見たかのように。そんなわけはない。知っているはずもない。どこかの書で読みかじった受け売りに違いない。歴史学者でさえも多くは推測で語り「だろう」で終わる。過去からの書や文献を紐解けるところは真実味を帯びるが、解釈の仕方ではどうにでも結倫づけられる。今ほどの映像も無いので絵巻物などで後世に伝わるが、まさか戦場でスケッチは無いだろうから、これも武将などから一方的に都合のよい情報を聞いたままを描いているのだろう。歴史はきっと都合よく曲げられたりして伝えられる運命にあるのだろう。美化されたり、誹謗されたり。今年も、かつての美談?忠臣蔵の討ち入りの日が近づいて来た。潜伏しながら機会を伺い、示し合わせて討ち入る。現代では、集団テロ行為とみなされそうだが。