隣の人へ親切な人がグローバルな人材になる。
いまや高校・大学・私立の小中学校まで、「グローバル人材育成」が校是みたいな念仏のように文字が躍る。いつごろからこんなにうるさく叫ばれるようになってしまったのか。中学のときに英語の辞書で「グローバルスタンダード」という書名があったくらいで、あの時代は「国際人」という言葉が流行った。その次が「世界市民」(コスモポリタン)だ。
バブルの頃から、証券や世界金融、海外へ出ていく輸出産業で働く人の促成栽培を、経済界が教育界へ要請して、それを何か国策のような気分で働きかけたのではなかったか?必要になれば覚えるのが物事で、生涯、グローバルには生きて行かない人が圧倒的な多数を占める世界中の国々で、強迫観念のようにメディアはじめ名の通った学者まで「お経のように」「グローバル人材育成」を語り出す。そういうあなたはどうなのと聞きたいくらいだ。
私の意見は、学校でも職場でも隣の人へ親切にする習慣を若い時から教える方がよほど大事だと思う。お父さんの転勤で海外で暮らさざるおえなくなれば、隣の人は〇〇国の市民で挨拶をしなければならないから、自然に小さなときからそこの言語を覚える。親切心は万国共通だから、友達もできやすい。いろんな話題や遊びも入ってくる。そうやって育ってきた人が日本じゅうわんさかいる。小さな民間外交官で、お母さんもそうだ。
私は狭い世界しか知らないけれど、36歳で初めて海外勤務をした娘婿がマレーシアで車の製造をマレー人に教えて1年ぶりに帰ってきた。娘の幼稚園で私立ゆえか英語の授業があって、どこかの国からやってきた教師の英語を聞いて「全部、何を言ってるかわかるよ」と。教えられたマレー人が1台の車が完成した日、大阪から社長が来て、教えられた感想を英語で述べたと。帰国時には彼のために大々的な送別会が開かれて、父親を待つ娘へマレーの民族衣装がプレゼントされた。
こういう友好が一番なのだ。別に肩肘張ってグローバル、グローバルなんて叫ぶことはなくて、昔のことわざどおり「郷に入ったら、郷に従え」でいいのではないか。私はそう思う。異国へ行く前に、それぞれが生きる空間の隣の人へ親切に振る舞うことを往々にして忘れていやしないか・・・。何か所かの職場を渡り歩いてきた私が見てきた現実を語らせてもらえば、グローバルな無礼な人材にはなるなと教えたい。
それは外交でもいえて、孤立しないためにも隣の国の人とは仲良くしなければいけないのは、軍事費を減らして、その分を民生、国民の暮らしを豊かにし、生命財産を守る国是にしてきた敗戦後の私たちの祖先の知恵だった。いつのまにか狂ってしまった。そんな気がする。
とはいえ、実は家族の中が一番「親切」から遠く離れてしまって難しい状況でもある・・・・・。家庭内犯罪が多発している。「I LIKE YOU」が適度な距離をもって母から子へ、子から親へと伝わっているか疑問だ。
昔の少年
我が国が、今でも或る意味で敵対視されているお隣さんの韓国語を家族が韓国人教師の何人かに10年以上前から習っている。話は出来るし、セジョン大王の発案と言われるハングルも書ける。でも文法や独特の言い回しなど国が違えばニュアンスも違う。何度も韓国にも行って買い物での会話で値切ったり或る程度の会話は成立しているらしい。普段から家庭内でもハングルを聞く機会も多いので、僕も街中で見かける韓国からの観光客の会話も少しは理解できるようになった。僕の例のように自然に身に着く環境にあれば誰でも多国語も理解できるようになる。外国人の友達が居れば、自然にお互いに相手の言葉が理解できるようになるだろう。我が家の子供たちの小学校にはフィリッピン人の女性教師が片言の日本語で英語を教えているようだ。彼女は何か国語も話せるらしく子供たちには人気の先生らしい。国外ではなくとも大阪に4年ほど住んでいた頃は関西弁に抵抗していたが、家族の実家も関西弁でついつい染まっていた。九州の友達、東北の友達、北陸の友達皆イントネーションが違って面白い。関西にしても京都と大阪でも微妙に違って全てマスターするのは難しい。言葉はある程度お互いに理解し合える程度でいいとも思う。