「進歩」という言葉を聞かなくなった。
熊本県の地震と阿蘇の周辺都市が次々と大地の大揺れ。震源が大分県へ移動しようとしてる。娘が大分で暮らしているので気が気でない。すでに防災袋を用意して万一に備えてる。4歳の孫が娘の地震を知らせる携帯のブザーやテレビに入る地震速報のチャイムにナーバスになっている。早く終息することを祈るしかない。すでに4万人を超える熊本県人がいる。フェリーや使っていない客船を海に浮かべて、そこを宿にすればトイレや睡眠、余震の恐怖から一時的に解放されると思うがどうだろうか。こういうとき、昔の青函連絡船が保存されていればと思う。子供・老人・女性を最優先に船に乗せる。
すっかり「進歩」という言葉が消えてしまった、使う人が稀な言葉になってしまった。科学技術が発達すればそれに比例して、人間の文化や生活が豊かになり、幸福になり、人間の徳まで上がるかもしれないという期待を込めた概念だった。
歴史からいうと18世紀のヨーロッパ啓蒙主義のころから始まるらしい。ジャン・ジャック・ルソーは教育論で、カントは哲学や永遠の平和を模索して理性への信頼に向けて、皮肉家ヴォルテールも知識の集積・百科事典的な物知りになれば、賢い進歩的な人間が数多く輩出して素晴らしい世の中になると考えられた。
19世紀末も芸術では退廃的な詩や絵画が多い世紀末芸術でも、細分化された機械工業がアジアやアフリカを植民地化して経済が潤う時代を謳歌していた。歴史を概観すると「進歩の概念はアジアやアフリカ・中東・南米などを植民地にした大陸ヨーロッパだから出てきた概念」だろうと思うし、実態はそうだ。それが、現代は時代が野蛮な・残酷な時代、空からの無人の爆撃機による殺傷を平気でできる、さらにロボットで敵側を殺す兵器まで造り上げてしまった。
科学技術はいつの時代もまずは、軍事力の応用、戦争のための(つまりは人殺し)技術として歩んできた。医学も第一次世界大戦でヨーロッパ国内で死傷者が続出して、それを治すために整形外科が発達してきた。義手や義足を含めて。だから、殺す一方ではなくて直す医療、看護する医療も出て来てはいるけれど、屍累々の20世紀と21世紀は後世の歴史家は、なんと表現するのか?
「暗澹たる歴史」「自ら光明を捨てた人類」「自殺行為と他殺行為の平行現象」「狂暴化した人類」「一神教の狂暴化」。どういう表現をされるのか。憎しみは乾いた感情なので火が付きやすい。何とか潤いの水をかけれないか。時間の経過とともに人間が野蛮化してきているみたく思うのは私だけだろうか?1970年3月開催の大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」だった。いまはどうだ。「人類の退歩と破壊」かもしれない。そして自分の無力を知る。
昔、昔の少年
九州の大震災は今までに無い連鎖型で、それぞれが本震のようですね。娘さんご家族は大分でしたか。ご心配ですね。我が家に出入りしている九州出身の方も、九州に居る娘さんがバレー教室を開設していて生徒さんが最初の地震でレッスン中にケガされたそうです。僕も福井大震災を幼少期に経験していて怖かった記憶は今も消えません。当時の田舎はガスも水道も無く、ライフラインとか言うものは電気のみでしたが、それほど電気依存型でも無く、蝋燭や懐中電灯、煮炊きは囲炉裏、水は井戸と谷川、トイレは汲み取り式、交通は自転車と徒歩で、食料は自家製の米、野菜は菜園で、木炭も自家製、誰もがそれぞれ普段通りに暮らしていました。地震は雷のような轟音で突然やってきました。もちろんTVも無く、ラジオも予兆など知らせてくれません。6歳違いの姉に手を引かれて瓦が足元で炸裂する道を逃げ惑ったものです。近くの学校の校庭に行こうと思ったのでしょう。渡ろうとした橋が目の前で土煙をあげて崩れ落ちました。後は網目のように根を張った孟宗竹の林に逃げるしかありませんでした。田舎の親たちは野良仕事などで橋の向こうに居ました。子供同士固まって夜まで親たちを待ちました。夜遅く、遠い川下に残った、たった一本の吊り橋を渡って親たちが歩いて戻ってきました。何度も来る余震に備えて綿入れの防空頭巾(東京空襲での経験で親が手縫いで作ってくれた)と衣服と靴を風呂敷に包んで枕元に置いて眠りました。時代が変わった現代でも誰でもできる事ですが、今では昔話のようで僕の話を真面に聞く耳を持った人達も居ないようです。こんな話は「サバイバル」とか言われそうですが、これも時代の進歩から来た弊害なのでしょうか。