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長崎軍艦島 3月27日 林朋子撮影

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過去があっていまがある。未来はあるか。

「明日は娘(息子)の高校入試」「明日は結婚式参列で友人代表祝辞」「明日は父のお通夜」「明日は息子の中学卒業式」「明日は大事なプレゼンテーション」「明日は九州へ孫に会いに」「明日は彼女へ告白して結婚申し込み」「明日は娘の中学入学式」「明日は筆者の大学の合格発表日」「明日は別府のホテルで娘の結婚式でお礼の言葉」「明日は筆者が結婚して新居に住むため自宅を出る日」「明日は筆者の4回目の転職で入社試験日」「明日は筆者の入社式」「明日は母のお通夜」「明日は哲学教授へ退学届を出す日」「明日は生まれ育った街を引っ越す日(6歳)」「明日は新しい転校先の小学校への初登校(6歳、11歳)」「明日で会社を去る日(62歳)」「明日は札幌地裁で女子社員の職場復帰を目指す公判日(30歳)」「明日は心臓カテーテル実施日(50歳)」「明日は50日ぶりに病院退院日(1月30日)」「明日は入籍届を出しに役場へ(3月15日)」「明日は公営住宅を出て、中古の戸建てへ引っ越す日」「明日はようやく仕事が決まった息子が家を出る日」「明日、話があると社長から言われた日(部長昇格、断る)」「明日、娘が生まれると言われた出産日」「明日、娘が大学入学で京都へ旅立つ日」。(順不同)

これは筆者のエポックメイキングな出来事だ。イベント前日の夜は眠れない日がある。しかし、人間の一生って、こんなに簡単に一行でまとめられる。書いていてびっくりだ。履歴書には学歴や職歴を書くが、その人にとって、その後の人生行路を考えると、上に書いたような出来事が、その後のその人の喜びや悲しさや悔しさや子供たちの未来や家庭のその後を左右する事件前夜のような気がする。「自分だけのヒストリー」。しかし書かないまだまだつらい出来事が数多くあるが、そういう話はそっとしておこう。

いまを生きてる人、すでに亡くなった人たちもみんな大きな出来事の前日の夜を過ごしている。その夜を無事に明けた人が、いまを生きている。病気や事故や災害で突然亡くなった人もそれまでに私たちと同じような「明日」を思いながら生きてきた。

古代の男たちも洞窟で「明日はバッファローを退治しないと食べ物がない」と奥さんや子供たちを横で見ながらたき火をしながら、せっぱつまった夜を過ごしていたに違いない。それから考えると、生死に関わる私のイベントは少ない。通過儀礼的な儀式ばかり。

住むところも無くなり、親族と生き別れて、国を追われ、命の危険に身をさらして他国民の善意にすがって生きる数多くの難民の辛さを思う。

  1. 明日(朝)が明ければ、また一日が始まる。嬉しい一日か、辛い一日かは別にしても、眠れて比較的体調もよく朝を迎えれば幸せと感じるこの頃。これまで朝を何回も経験しているはずが、これと言って余り覚えてはいない。ただ、思い起こせば数回あるのは「なんだ?夜なのに、こんなに明るいのは?」と思った事があった。徹夜仕事で朝を知らずに、カーテンを開けた瞬間と、もう一度は、夜を徹してお酒を飲んでビルから出た瞬間だ。天変地異でも起きたかのように驚いたものだ。最近では徹夜仕事も減って、出来る限り睡眠をとるように心掛けてはいるが「ひねもすのたり」か昼も眠いこの頃だ。昨日は郵便局前の駐車場のクルマの中で眠くなり仮眠して起きた瞬間「ここはどこ?」となった。もう明日を心配しなくても良くなったのか?それとも明日の事を忘れているのか?「明日は明日の風が吹く」なんてあったが、「今日の事しか考えていない、明日の事は分からない毎日」を過ごしている自分に気づいた。

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