レッテル貼りは伝染病かもしれない。
人間は怠惰な動物で、自分で考えず、他人の思考や判断を鵜呑みにして、いろいろな現象にレッテルを貼って平気で毎日を生きていることが多い。
庭のアリやバラに止まるハチを見ていて、厳密には複雑な仕組みで動いているのだろうけれど、実にシンプルなそれぞれの生物人生を全うして羨ましく思うときがある。テレビもなく、勉強もなくて、数字のノルマもなく、景気が悪いから、「どうも最近この団地も高齢化が進み、花作りが10年前と比べて減っているから、蜜の採取できる花々が50%になった。したがって、退職金を上乗せするから早期に退職をしなさい」と女王蜂から言われたりはしない。
話題が筆者はすぐにアリに行ったりハチに行くが、なまじ言葉や言語を持ち、大きな大脳に言語野を抱えていながら、自分で考えて、自分で判断して行動することをいつのまにか忘れてしまっているのではないか。そう思う。しかし、考えることは記憶の蓄積がないと、どこかであれこれの知識がないと発生しない。だからまず、記憶の蓄積があって、そのための営みをしなければいけない。数字の計算なら回答は一つでわかりやすい。
しかし、同じ現象を見ていても、反対の結論を出してしまう錯覚もある。デモで殴り合いが始まったとする。カメラの視線が殴られた方から写すと被害を受ける画像であるが、実はその前に殴った側の方が見えないところで相当な暴力を受けていたとしたらどうなるか?報道は、必ず、2回3回と自分で点検してみないとどれが正しいか言えない。そして怖いのは、『一度、思い込みでレッテルを貼られると、それを剥がすのが何十倍も困難』だということで、軽々しく他人をああだこうだと言えない。それも情報弱者が、簡単にテレビや週刊誌の1行、新聞の週刊誌5段広告記事をさっと読み、ばっさり他人を裁く癖ができてしまったように感じるのは私だけだろうか?しかも、それがもう当たり前のような社会の雰囲気を感ずるのである。このレッテル貼りの習慣をどうにかして止められる方法はないものだろうか?「同調しない」癖を養う何かいい方法はないのだろうか?
猫を被った小悪人。
世の中のこと全てがお芝居だと考えれば,それぞれの人たちが「役」を演じているだけで,人それぞれ本当の顔は別にあるのでしょうね。「表向きとか「立て前」とか「公人」などと表現されていますね。反対に「私見」とか「個人の立場」とか「個人の意見」などと使い分ける人も多いですね。そう考えると,ジキルとハイドでも有りませんが,ほとんどの人が二重人格のように思えて来ますが,物事や人の考え方には必ず「裏」と「表」が存在すると言えるでしょうね。優しく接してくれる人の心の裏には「利用」するための下心だったり,表向き厳しく接して来る人も,個人的につき合えば優しい一面を持っていたりと,そんな経験は何度もしましたね。良くも悪くも「人は見かけによらぬ者」ですね。ところで自分は?どうなのか?と自問すれば,意外にもずるく生きていることにも気づきます。自分を「役」をつければ,「怪人二十面相」かも知れませんね。それとも?「羊の皮を被った狼」?でしょうか。いや?せいぜい「猫を被った小悪人」くらいですかね。
働き蟻。
蟻も蜂も人間社会そのものですね。あちこち飛び回って,お金と言う蜜をせっせと稼いで女王蜂に奉仕して,少しばかりのご褒美を貰って,また労働して。我が家と言う巣を作って子孫を作り,またその子達にせっせと貢ぎ,少しばかりの財産を残して,自分は何も持たずに死んで逝く。悲しい働き蜂や働き蟻の一生は人間そのものですね。ただ,人間の世界には例外もあって或る国では「一夫多妻」もあるから驚くとともに羨ましいかぎりですね。ただし「身が持つかどうか?はあなた次第です」けどね。
女王蜂に群がる種類の違う蜂たち。
政治が混沌とする中での国会では,昨日の衆議院の「思いつき解散」宣言で,さらに女王蜂に群がる,だらしのない働き蜂たちが「改革」を旗印に慌ただしく騒ぎだしていますね。毎日ニュースを見る度に驚くのは,人の心の変化です。つい,昨日まで言っていたことの正反対のことを,まことしやかな理由をつけて平気な顔で公言したり,あれほど硬い組織を求めていた者同士が,選挙を前に,くっついたり,分散したりと真実の姿は未だに読み切れませんね。政治評論家たちや無知なコメンテーターたちが誰かの言動をもとに推測して語りますが,果たして信じていいのか?も疑問ですね。結果を見れば真実の一部は解明できるでしょうが,また例のごとく誹謗中傷だけの選挙戦に成るのでしょうか。政治の世界では,未だに足の引っ張り合いなんですね。しかし,女王蜂どころか「ハゲ〜!」とか?,「不倫」とか?,「○X学園」とか?数多き問題を抱えた連立政党の運命や如何に?ですね。
消費期限。
ワインでも食品でもレッテル(ラベル)を剥がせば,何がなんだか分からなくなりますね。それだけにレッテルは重要な役割をしていますね。ただし,そのレッテルを貼り替えれば全く別のもののようにも思えてもきますから,紙切れに過ぎないレッテルの効果は大変なものがある訳です。消費期限を表示した小さなシールを張り替えて改ざんする食品会社の事件が有りましたが,一度ついたイメージは,消費者からラベルを貼られて,なかなか消えません。物事の真実を知るには,元々のレッテル(ラベル)か?それとも貼り替えられたものなのかを見分けなければなりませんね。ただし,貼り変えたレッテル(ラベル)にも消費期限は何時か来るでしょうね。
伝言ゲーム。
楽だからですね。あの人が言っているから僕も私もと言うのは。実際には自分で判断がつかない案件もMC誘導でコメントする人たちがいて,たいていは政治記者や大学教授や政治家やタレントですが,それぞれが偏った意見を持っていて,どこかで落としどころを見つけてMCが結論づけるのですが,あくまで推測の域を脱してはいません。ところが一般の人たちは,あたかも実しやかに自分の意見としてすり替え,さらには他人へと伝達ゲームを展開しますから,真実からはどんどん離れていきますね。実際には言っていない事を言ったとか決めつけば,その情報が独り歩きして広がってしまいます。「誰々が言っていたけれど本当のことは分からない」と伝えるべきですね。レッテルを貼る前に。