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(1533年~1592年)

アテネ人デマデスは、その都市において埋葬用品の販売を生業とする一人の男を、「あまりに利益をむさぼりすぎる。しかも利得は多くの人々の死がなくては生じえないものだ。」と言って(彼を)処罰した。この裁きは間違っていたと思う。なぜなら、どんな利得だって他人の損失とならないものはないし、そんな風に考えるとすべての利得を処罰しなければならなくなるからだ。商人が栄えるのはただ若者の乱費のためだし、百姓が栄えるのはただ麦が高いためだし、建築家が栄えるのは家が倒れるため、裁判が栄えるのは世に喧嘩訴訟がたえないためである。聖職者の名誉と義務だって、我々の死と不徳から生じるのだ。「医者は健康がきらいで、その友人の健康さえよろこばない。軍人は自分の町の平和さえよろこばない。」と古代ギリシャの喜劇作者は言った。そのほか何でもそうである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれ心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生まれ且つ育っているのである。そう考えているうち、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむかないことに気がついた。まったく物理学者は、もろもろの物の出生・成長・繁殖は他のものの変化腐敗であると説いているのである。

 

まことに物がその形と性質とを変えるとき、

前にあったものの死がないことはない。(ルクレチウス)

 

1533年生まれ1592年死去の、モンテーニュ「随想録」で一番短い章なので全文引用した。(関根秀雄訳 白水社)当時フランスボルドーのお城に住んでいた彼のところにも宗教改革と戦争の波が押し寄せてる中で書かれている。文章はそれを書いてる人の環境や心境に大きく左右されるから、彼が最初に埋葬用品の人を引用したのも、たくさんの旧教徒とユグノー新教徒の殺し合いが身近に、目の前で起こっていたのだろうと筆者は推測する。蛇足ながら、関根秀雄訳は誤訳が多過ぎると咬みついたのが、林達夫だ。16世紀フランス語なんて全然読めない私だしこればっかりはね。キリスト教同士の殺し合いに辟易して城に閉じこもり、細々とエセイを書いていて、時々、自殺をほのめかす章もある。腎臓結石に見舞われた時期だ。肉体の苦痛・耐えられない苦痛は死にたくなる。それは時代を超えている。奥付を見ると私が21歳のときに購入した本だ。さっぱり読んでいなかった。情けない。

一方の得はもう一方の損

 

  1. 僕がデザインの道に踏み入れた若い頃、僕の師は元々油彩から転身してデザイナーとして既に大手メーカーと直接取引があった。僕は弟子入りを申し入れ、大先生の助手となった。ある日、大先生が留守のアトリエで片づけをしている時、売り上げ伝票類が目に留まった。毎週、大メーカーに提出されていた、請求書の控えを見ると、何と、記されていた金額に愕然とし、同時に罪悪感を感じた。それまでの僕は、ビジネスの経験も無く、せいぜいアルバイト料程度しか知識もなく、こう感じたものだ。「この人は何と言う人だ!芸術を売り物にするとは?」と。当時の僕は純粋過ぎたばかりか、給料ではなく手当として毎月7千円ほどしか貰っていなかった事も重なって、そう感じたのだろう。アート=芸術。商業デザインと区別・理解するまでには、やや時間が必要だった事を思い出した。

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