ゴミはゴミを呼び、乱雑は乱雑を呼ぶ。
筆者は、整理整頓がダメで、現役時代もデスクと引き出しの中は乱雑で汚いので有名であった。綺麗になるのは退職するときだけで自分で言うのもなんであるが、困った人である。デキルやつは汚い机で仕事をしていて、ばたばたするのが女性にモテるという刷り込みがある時点でされたのか、単なる親のしつけ項目に『整理整頓』がなかったのか、いまさら確かめようがない。
仕事ができる奴は書類をうず高く積んで、その中から、目的の資料を瞬時に出す早業。素晴らしいことだ。尊敬に値する。整理整頓する奴はそれしか取柄の無い奴と軽蔑していた。困った男である。いまでも、自宅のパソコンの周りは100円ショップの籠に本や資料が無造作に入れてある。『乱雑は乱雑を呼ぶ』を地でいっている。あるとき意を決して自分の部屋を整理したことがある。
しかし、慣れないことをすると大脳に混乱を来して、探し物が見つからず、とんでもないところから出てきたこともあって、これをヤッテハダメだと思った。ところが、連れ合いは大の几帳面、整理整頓好き、きれい好きで片づけ魔。平気で私の机の書籍や資料を一定の場所へ移動、すっきりさせる。ケンカになる。『勝手に動かさないで欲しい』。『プラバシー侵害だ』と抗議しても受け付けない。『整理整頓してから、ものを言いなさい』。『ゴミ屋敷にして、何を言ってるの』とも。キツイお言葉。
話変わって、ドライブをすると、農道や山道に冷蔵庫・古タイヤ・大量のペットボトルがある一定の場所に固まって捨てられてある。ゴルフ場前が多い気がする。ゴミや廃棄物は誰かが1個捨てると、次々連鎖反応を起こす。ダメなこととは知っていながら『ここは捨ててもいいんだ』と思い込みが発生する。私の想像であるが、そういう人の家の中はたぶん汚いか整理整頓されてない気がするがどうだろうか。自転車の不法駐車の心理にも似ている気がする。
『誰かの真似をすることで、大量消費社会を生んだ』わけであるから、不法行為と消費行動の連鎖は似ている。私のデスクトップパソコンもアイコンが多過ぎて、探すのにひと苦労だ。フォルダーの中に別なフォルダーが入っていて、入れ子状態になっている。ロシアのこけし状態だ。
机の上も6畳部屋もパソコン画面もゴミは減ったが、乱雑。当然、頭の中も乱雑になっている。こうやってブログを書いて実は整理整頓をしているのかもしれないと弁解する筆者であった。週に3回、様々な燃えるごみ、生ごみ、大型ゴミ、ペットボトルなど収集に来るトラックを見て頭が下がる。
パイロットに成れなかった少年
アナログ時代の僕のデスクを社内では「鼠の巣」と呼んでいた。当時の自宅の書斎も床にも書類が散らばり乱雑だった。片づけられると仕事がやりにくくなり、一仕事終わるまでは家屋には触らせなかった。本格的にPCで作業するようになってからは机のガラス板の下に「TAKE OFF!」と大きな文字で打ち込んだプリントを敷いて、飛行機のスケール・ダウン・ミニチュアを飾っていた。つまり管制塔とパイロットの交信「さぁ~飛び立つぞ!」と言うわけだ。滑走路はいつも綺麗にして空けて置かなければ飛行機の離着陸ができない訳だ。ノート・PCは何時も使用する時だけ背後の施錠したロッカーから出し外出や退社時には仕舞うようにしていた。ところが、最近では27インチのi Mac2台がデスクに、右わきには27インチのウインドウズが鎮座。これはロッカーには仕舞えないし、出し入れするには重すぎるので、現在の僕の滑走路は空母より小さく、「ハリヤー」か「オスプレイ」か「ヘリ」くらいしか離着陸できなくなってしまった。
エコロジジ
掃除しない奴は散らかす奴。我が家にはそんなのがゴロゴロ居る。中一の長女の部屋は酷い。小四の双子も最悪。小二の女の子だけが整理整頓をする。「食べたら片づけろ!」。「自分の事くらいは自分でしろ!」。「TVなんか見ていないでサッサと支度しろ!」と、毎日毎日僕の怒声から一日は始まる。まるで自分の過去を見ているようだ。あの幼少の頃のツケが回って来て、今では毎日掃除機を掛けてから仕事に出かけている。
間借り世帯主
家の中に有る僕の私物と言えば、少しの衣類と何足かの靴とPCくらいだ。書籍も使わないものは全部縛って階段下にひっそりと積んであり、いつでも捨てられる状態にある。朝は早く起き、炊事をこなし、弁当を作って、つかの間の楽しみの入浴で身体を清めてナルハヤで仕事に出かけ、夜は家人たちが寝静まる21時以降に帰宅する毎日。一家団欒など余り好きではないし、男は「狩り」に(仕事)出かけて獲物(おカネ)を持ち帰るのが当たり前と、刷り込まれているのか?家族と顔合わせは一瞬だからこそ、これまで長く暮らして来れたような気もしないでもない。こっそり帰って、こっそり出かける。自分の家でありながら、まるで間借り人のようだ。
演歌ビニル
ゴミ捨て(道産子はゴミ投げ)は僕の仕事だ。ゴミステーションではビニールを捨てる日は一番量が多い。カラスよけの大型ビニールシートとネットを掛けるが足りないくらいに山積みとなる。ダイオキシンの元凶のビニール製品が如何に多いか。このビニールは再生されるのだろうか?再生不可能なら何故作り続けるのだろうか?ビニールやプラスチックが世に出て半世紀余。問題視されながら今も生産は増える一方。ゴミステーションがその現実を物語っている。再生エネルギーとして再利用できないのだろうか?
ゴミ捨て場の住人
最近では、ゴミ捨て場も余り見ないが、かつては札幌市内の各所に生ごみの捨て場があった。付近を通るとハエの群れに遭遇した。そんな場所も盛り土で埋め立てられ、転圧して、区画整理され、その上に住宅が建てられて街に変わってしまっている。当時、不動産広告の制作の為に周辺も含めてロケーション・リサーチや写真撮影をしていた僕はそんな歴史の生き証人でもある。今やゴミは大型プラントで処理されているが、東京の夢の島のようなゴミの島は全国各所にあるが、今ではその原型を知る者もほとんど居ないのだろう。ゴミも社会貢献している一例だが、今後もゴミはどんどん増え続けると考えれば、ゴミの製造元(メーカー)の責任においてゴミを減量するシステムを構築しなければならないだろう。消費社会は使い捨て社会でもあり、安く大量販売する事も起因している。外国に習うのではなく、先人の知恵を生かした日本流の暮らし方を今一度考え直す時かも知れない。