「子供時代の感受性は大人になってから取り戻せない」。これに類した言葉は、ソニーの故井深さんも故吉本隆明も実業家・学者・研究者・思想家もほぼ例外なく語っている(本には書かないでも)。東芝の元社長で臨調の委員長だった土光敏夫さんも幼稚園経営に全財産をつぎ込んでいた、自分は質素な暮らししていて。養老孟司さんも鎌倉で幼稚園の理事長をしていて、子供時代をどうやって過ごさせて、生涯の感受性を育てて行くのかに、公私とも努力(財力提供含めて)をしている。

吉本隆明は、口を酸っぱくして「とにかく4歳まではお母さんは外で働かないで子どもに徹底的に、愛情を注ぎなさい」と書いたり、しゃべっている。お母さんがいなければその人に代わる叔母さんでも代理の母親でもいいと。多くの人の人生と彼らの終わりを見てみると、その子供時代の過ごし方、特に母親からの扱われ方が生涯の彼(彼女)の人生を決めてしまうと言ってもいい。これは危険な思想とはいえ、決定論的な考え方かもしれない。残酷な言葉と受け取る人も多いと思う。

筆者はたぶんそうだろうとは思いながら、ひるがえって自分の子供時代の猥雑さを思うと確信が持てない。他人へ語るほどたくさんの絵本を読んだり、絵を書いたり、昆虫や魚釣り大好き、プラモデル狂でもないし、ひととおりこなしてきただけ。平凡な子供であった。ただ、ひとつ言えるのは「敵」が少なかったくらいか。

運動も下手だから、ライバルは低いレベルでのどうでもいい競争だったし、テストも真ん中、背丈は50人の中で一番低くて、クラス写真は前列左側が定位置。1学年上の兄と2歳下の妹がいて、運動会では彼らはリレーの選手、私は昼ご飯をたっぷり食べる人。1学年500人のマンモス校で全学3000人の小学校。中学も1学年350人で全学で1100人。教師からの干渉も少なく、のびのび育ったのがかえって良かったのかもしれない。

私は生徒会や学年テストで目立つ兄を自慢の母親の蔭で隠花植物のような私ではあった。現代、子供たちは早くも親たちから愛情を受け取る前に、親自身のエゴのため(成績やランク付け世間への見栄のためにどっぷり)に生きてるように見える。反動や復讐がいずれ始まるだろうと思う。いまでは名門幼稚園では、毎日の幼稚園での生活をスマホやi-padで見れる仕組みもある。先生の対応さえ親から監視される。たえずカメラの視線を感じながらの暮らしって、異常ではないだろうか。

老人ホームで母の部屋が、転倒していないか監視するカメラと意味が違う。大事なのは、目の前の母親の愛情深い生きたまなざしだ。「何をおいてもあなたが一番」と掛け値なしで態度に出してくれる親の存在なんだろうと思う。とにかく自然の中で裸足で遊ばせる、五感で自然を感じさせる、母親の愛情も自然の一部になれば、彼等の未来の人生は多少の困難があっても乗り越えていくメンタル力を、作ってくれると思う。ベビーカーに乗せての散歩や電車・地下鉄で赤子がお母さんを見ているのにスマホに夢中なお母さんが多い。まっすぐ、自分の子供に微笑んでもらいたい。

 

  1. 4人の孫たちを置いて家を出た嫁だが、親子の関係は今も続いていて、末っ子の情報では、昨日は4人の子供たちと母親の5人でカラオケに行ったと言う。片親しかいないと言う事で、子供たちには厳しくも毎日毎日、愛情を持って4人を育てているつもりだが。運動会だ、学芸会だ、部活の発表会だ、と節目節目の良いとこ取りのように、家出した嫁が母親面をして顔を出す。自ら離婚を宣言して家をおん出た身、当然、顔も出せないと思いきや、子供の事は忘れられず、悪びれる様子も無く母親役を演じている。まるで実家に帰省でもしているかのように、家で子供たちと、家内が用意した夕飯を一緒に食べて、また居なくなる。時々、中一の長女の部屋には「お小遣いだよ。無駄使いしないでね」のメモが。玄関には真新しい運動靴がズラリと並ぶ。買い与えたのだろう。育ての親代わりの私たちには、何とも複雑な気持ちだが、子供たちは、何のためらいもなく「母親」として受け入れている。確かに彼女の胎内で出来た子供たちには違いない。私は、余り会いたくもないし顔も見たくも無いのが本心で顔を合わせ無いようにしているのだが、そんな「母親」でも、子供たちにとっては、不動の存在なのかと、理解できない。

  2. 末っ子の僕は、両親に可愛がられた方だ。商売などで華やかだったらしい東京からの田舎暮らしへの急展開で貧しい生活だった。そんな中でも子供の僕は何不自由なく育てられていた気がする。ただ一度だけ給食費が払えなく、母親を恨んで泣いた事を憶えている。田舎の暮らしではサラリーマンのように毎月おカネが巡ってくる事はないので、母は東京から大切に持ってきた着物を質屋に入れたりして工面していた。或る時は12人の兄弟姉妹の居る東京に仕事を探して行く事もしばしば。そんな苦労や理由も知らずに、母親は、父と僕を置いて東京に行く事を恨み、嫌いになった。母は僕が中学を卒業したら家族一緒にまた東京で暮らそうと言っていたが、一度は東京で成功したが、二度と東京へは行かないと言う父に僕も味方した。しかし、僕も大きくなるにつれ、田舎に夢を求められず実家を離れて行った。全寮制の高校へ進学しては見たものの、両親と別れたその夜は、思いもしなかったホームシックに掛かって涙したものだ。それにも慣れて来た頃、地元の可愛い16歳の彼女が出来た。彼女の母親は僕を息子同然に扱ってくれた。特別気を使ってくれているでもなく、彼女と姉と弟の中でいつも普通にご飯を食べさせてくれたり、家族と一緒にTVを見たり、まるで自分の家のようだった。彼女の母親はいつも傍らで縫物をしていた。着物か洋服の仕立てだったと思う。その母親は実家を離れて暮らす僕の心のオアシスだった。僕が大阪暮らしを始めて間もなく、彼女とは別れる事となって縁遠くなってしまったが、今でも自分の両親と、彼女の母の事は忘れられない。いずれも今更、会う事も出来ないが、あの時注いでくれた愛情には、いつも感謝している。

  3. 子供たちもそれぞれ個性があって考え方も違うが、スポーツなどの集団行動では画一教育に近いスパルタ式で指導者が統率しやすくしている。しかし一旦その場を離れればそれぞれが個々の性格を取り戻す。昨日は近くの公園に少年野球を見に行った。母親たちが一生懸命だが父親の姿は居ない。中でも大声のガラの悪い母親が選手を恫喝している。選手の母親なのだろう。公衆の面前で馬鹿にされた少年は素直に受け止めているのだろうか?周りの補欠の少年たちは怯えたようで声も小さかった。他の母親たちは無言で見守っていた。そのあまりにも対照的な母親像を身近に見てしまった。

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