人生とはつまらないものだ。
江戸時代はほとんどいまで言うワーキングプアであったらしい。特定の商人や幕府の役人を除いて、当時世界一のエコ都市に住む江戸ッ子は、平均寿命30~40の間を明るく人生を駆け抜けていた。宵越しの金も持たず、金がなければ「貸してくれ」と隣近所から借金して、返せなければ夜逃げするか野垂れ死に。
別に幕府を責めるわけでもなくて、「人生とはつまらないものだ」「こんなもんだ」。金が欲しくなれば担ぎ棒を持っていくと、金魚売りや魚屋で一仕事。「お前さん、明日の暮らしどうするの?赤ちゃん泣いているよ。」とカミさんから言われたら「何とかなるよ」「どうするんだい?」「うるせえな、なんとかなるって。コメを隣からもらって食えばいいだろう」。どこもかしこも貧乏があたりまえ。お互いさまで助け合う。長屋暮らしの夫婦の両親も貧乏であるから助けにはならない。
「くだらない人生こそが人の一生である」「自分なんてたいした人間ではないよ」「自分にはたいした才能もないし、夢もない」。現代。習い事をはじめ下手な教育を受けて、野球だサッカーだとお金を払い、才能もないのにバレーやピアノにお金を使い貧乏に陥るのとどっちが幸せかわからない。
その分野の才能のあるなしは残酷だけど小学生時点でもうわかることで、「あなたはこの道を進んでもお金の無駄ですよ。スポーツメーカーへお金を使うだけですよ。それでもいいなら練習をしなさい。クラブ活動だけはいい点を付けてあげますから」と言えないものだろうか。才能の有無は親自身を見ればわかるというものだ。口には出さないが、親が一番それを知っているかもしれない。健康のためと自己納得しているが。
江戸時代は貧乏人は籠も使えず、自分の脚が勝負だ。そんな勝負するという意識で動いてるわけじゃない。仕方なくだ。できれば働きたくない。「食うため、しょうがないなあ」。「丼でチンチロリンでもやりたいな。」。難しい法律用語もなく、たまに四つ角に「お触れ書き」が立てられるくらいだ。「また幕府の役人ども、年貢を増やすだって。勝手なもんだ!」。「田舎の農民、可哀そうだわ。どこまで搾り取る?生かさず、殺さずか!?」。
なんだか現代の派遣社員のピンハネされてる労働者にそっくりではないか。500年以上歴史が経過しても、冨と貧、支配層と搾取の構図は変わらない。富者も貧者同様、土に還る。どっちにしろ、「人生って、たいしたことはない。せめて他人を殺す戦争だけは御免こうむりたいものだ。」。さらに過激な題名の本が出た。「人生に生きる価値はない」(中島義道 新潮文庫)
「人生はつまらないものだ」とアイロニー的に思うと、大上段に「俺には才能があるという選民思想」無駄な「自分探しの旅」が減って、肩の力を抜いた仕事ができると思うのだ。つまらない仕事に面白い発見や工夫が、人間関係の展開が生じる可能性も多い。意外な人と結ばれたりする。それも見栄を少なくして自然体に近づいてるからかもしれない、私の経験からもいえる。人生論真っ盛りの現代、読者の反発も予想されるブログテーマだ。「人生とはよくよく考えるとつまらないものだ」。「意義あるものにしようとしてかえって周りに迷惑をたくさんかけている」と思わないか。
参考 「ワーキングプア死亡宣告」232p(江戸っ子は常にワーキングプアであった)
生涯現役?。
初めから楽しい人生が約束されていれば、これまでのジグザグした生き方などしなくてストレートに生きて来れたのだろうが、そうはいかない。成人すれば親にも頼れず、独りで生きる道を探す事しかない。昔と違って他人は誰も助けてはくれない。すべて親がかりで生きて来れた人達は幸せと思うが、決して羨ましいとも思わない。むしろ貧困家庭に育ったことのほうが貴重な体験で、貧しい青春時代もあったから今があるのだろう。かと言って、今が最高に幸せとは言えないが、これ以上を望むには生かされる時間も足りないのではないだろうか。人生もどこかで手を打たなければいけない。
改心した悪ガキ。
才能なんて誰にも備わっていない赤ん坊から同時スタートだが、DNAとか隔世遺伝とか言われる事もある。聞かん坊の孫の小4男児も、将来はロクな者にならないとあきらめていたが、最近少年野球チームに率先して入部してからは、言われなくても自ら行動すりようになった。一昨日もグランドに試合を見に行くとレギュラーで一番打者でキャッチャーをやっていたのには驚いた。僕の子供の頃と言えば、野球は大嫌いで守っていても球が飛んで来れば逃げた方だ。なんといきなり振り逃げで盗塁で先取点まで稼ぐ彼を見て、あのすばしっこさは一体どこに秘めていたのかと。暴れん坊の悪ガキで嫌われ、つまらない一生で苦労するよりも何か自分で見つければ変わるものだ。それには、早い方がいいのだろう。別にプロを目指さなくても。
理想の年寄り像とは。
年寄りは、容姿は皆同じに見えても、歩んできた生き方は百人いれば皆違うのだろう。それを、つまらないと評価するとすれば、自分の方が立派な生き方だと思い込んでいるからだろう。儒教ではないが、年上を敬うと言う考えも最近では薄れてしまったようだ。高齢化社会と言われ、年寄りが邪魔者扱いされる世の中になって久しいが、今の社会が存在する礎を築いた人達との認識を持って欲しいものだ。とんな若者も年老いて行くのだろうが、人生の終末には一体?どんな「年寄り像」を目指していきているのだろうか?
元気溌剌!。
つまらない事ほど楽しい。くだらない事ほど笑えるい。危ない事ほどやってみたい。そんな事をしながら一生を終わるのだろうが、苦しい事を忘れるにはそれが一番。つまらない友人やつまらない仕事、つまらない人生と思ってしまえばそれまでだが、一日の終わりに「楽しかった」と言える生き方ができれば、それで十分だと思う。そんな事があるから、飽きもせず生きて居られるのだろう。
夢追い人。
若いときにチャレンジして、限界を知り、あきらめた事はいろいろある。成功や目標達成には努力だけでも実現しない。タイミングや運や縁がぴったり重なったときにチャンスが来る。しかし、それまでに自分自身をあるレベルまで磨いていなければならないことは言うまでもない。チャンスがやってきても自分に実力が無かったり、実力があってもチャンスが無かったり、人生は偶然が左右することも多い。自分に置き換えて考えれば、ここまですべてが偶然と言っても過言ではない。知らない人と知り合って、まさかと思っていた生活が始まり、職も転々としながらも生きながらえているのは、偶然の他人との出会いや縁でしかない。もし、あの時、あの人と会っていなければ?と考えると不思議な縁を感じると同時に、人生なんて、自分ひとりで設計してきたように言う人が多いが、他人に左右されながら形成されるものではないかとも思う。人生論を云々する以前に、現実は「最低限でも食べて生きて行くために」が基本にあることには間違いないとも。