昨日の続きになるかもしれない。

モースの見た明治12年~15年の日本の子どもたち(5月19日再録)

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明治期、子どもは病気で亡くなることも多く、生きてる間は自由に天真爛漫に育てようと思った親が多かったらしい。5月19日の再録です。イザベラ・バードの部分のみ追加してあります。

エドワード・シルベスター・モースという大森貝塚を発見、発掘したお雇いアメリカ人がいた。小さな頃から貝拾いが好きで、シャミセンガイという貝に凝っていた。この貝が日本に行けば種類・量とも豊富だということを知り日本行きを熱望。サンフランシスコから横浜まで19日間の蒸気船の旅で上陸、日本の土を踏んだ。

貝が好きだったこともあってあの土の層の白いところは貝塚だとすぐにわかり、世紀の発見につながったのである。明治10年は維新から10年経過したとはいえ、庶民の暮らしは江戸時代と連続していて、生き方や考え方、暮らしで使う様々な生活道具は江戸時代の延長であった。

日本史や政治思想を学び過ぎて、「明治とは〇〇な時代だ」と観念や言葉、アタマで明治をわかろうとする癖では庶民の暮らしはわからない。現代でもそうだけど。自分の五感を大事に生きたいものである。モースが初めてスケッチしたのが、木製の下駄だった。カタカタという音が気に入ったのである。3回の来日で、北は北海道、南は鹿児島まで旅をしてアイヌ資料から武具・陶芸・根付・仕事道具・服飾・看板まで。それこそ、庶民が日常使うもの、商人や職人が使う道具を中心に膨大なコレクションをした。「通訳なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる」。

≪閑話休題≫明治11年英国人女性イザベラ・バードが「日本奥地紀行」(本国の妹へ日本のあれこれを手紙・書簡を書いてそれをまとめたもの)の中に「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたがまったく安全でしかも心配しなかった。世界中で日本ほど婦人が危険な目にも遭わず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」。彼女は通訳兼馬引きとして伊藤鶴吉を同行はさせたが。明治維新の10年後であっても庶民の世界は外国人を排斥するどころか、快く迎えるもてなしをしていた。排外主義が闊歩しだしたのは昭和に入ってからではないだろうか。そう思う。司馬史観は勝手に明治をドラマチックに作為し、庶民の目を持っていないなと感じる瞬間である。インテリ受けする、バイプレイヤー史観だと思う。無名な庶民の感情が消えている。経営者から見たら管理職の気持ちはわかるがヒラ社員の心根は知りたくない・・そういう史観(考え方)ではないだろうか。人間に冷たいのだ。

それ以上にびっくりしたのが、日本の子供たちであった。「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」「それは日本が子ども達の天国だということである。・・・・赤ん坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背中に乗っている。」遊び道具もモースはたくさん収集した。鼠のからくり玩具、こま、輪投げ遊び、土メンコ、貝遊び(おはじき)、お人形、縮れ麺細工、墨で描いた手習い帳、雛や端午の節句玩具など。

39歳で来日して、79歳になって書いたのが「日本その日その日」(Japan Day by Day)日本滞在の4年間、3千5百ページに及ぶ日記をモースは書いていた。ビゲローという親友がモースにそれを出版するよう促したという。「君(モース)と僕(ビゲロー)とが40年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十数年間に我々がかつて知った日本人はみんなベレムナイツ(いまは化石としてのみ残っている頭足類の1種)のように、いなくなってしまうぞ」。

モースの目は、職人や商人、大道芸人、見世物、物売りの世界(魚売り、煙管ヤブリキ細工を修理する人)はしごを売る人にまで注がれる。看板やお札・おみくじ収集している。現代、子どもを道ずれの心中事件を聞くたびにモースの言った「子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」という言葉を虚しく反芻する。(明治のこころ モースが見た庶民のくらし 青幻社刊 2013年9月26日発行)

追加:近代工業へ世界で最初の1歩を歩みだしたイギリス。その実態は6歳から工場労働者として10時間以上の過酷な肉体労働を強いるものであった。どちらが『幸福に近いのか』。そういう近代工業へ明治時代は農村から労働力を集め、石炭堀ををはじめ、自由な農村を崩壊させていったのである。

  1. 十年一昔と言いますが、アメリカでは肥満が問題視されていた頃の日本には、未だ肥満で悩む人など少なかったと思います。また、アメリカの犯罪が低年齢化して来た頃、日本も10年後には同じ事になるのではないだろうか?と危惧していました。まったくその通りになってしまいました。欧米化して来た日本の職も暮らしそのものも、すっかり変りはて、わずかに残る昔ながらの文化や食生活を外国人の方々の方が興味を持ったりする始末ですね。古き良き日本を日本人が嫌い、外国人が興味を持つなんて、数十年想像もできませんでしたね。

  2. 下駄と言えば、高校生の時に履いていましたね。朴ノ木で作られた高下駄と言うやつで自転車にも乗っていました。今考えれば危険でしたね。或る日、下駄屋さんで綺麗なハナオの下駄を見つけたので買って履いていました。男子寮の玄関で脱いで下駄箱に仕舞おうとした時に、上級生の鉄拳が突然顔面に飛んで来ました。どうも派手な下駄が気に入らなかったようです。腫れ上がった顔面で、6人部屋の自室に戻ると、同級生が顔の腫れの理由を聞きました。その通り正直に話すと不良の彼は部屋を飛び出して上級生をボコボコにして戻って来ました。それ以来、不良上級生は僕にかまわなくなりました。最近では下駄はお祭りの子供のものしか見かけませんが、カランコロンと夏は快適な履物でしたね。幼少のころは親父が編んだワラ草履を履いていました。藻のついた石ころで滑りやすい川遊びには最適でした。万が一流しても、また自家製で作れます。学校では孟宗竹の皮で編んだ草履を室内履きにしていました。米糠を入れた袋で学校中の床を皆んなで磨いていましたから、竹草履はスケートになりました。これも自家製でした。学校も楽しい遊び場でしたね。

  3. 外国人を間近で初めて見たのは、小学校のグランドでした。悪ガキの僕たちは校庭の片隅で空き缶に水を入れたところにオタマジャクシを数匹入れて、下から火を燃やして煮ていました。そこへ米軍の兵隊さんがジープに乗って二人でやって来ました。「What are you doing?」とか何とか。現実を知った彼らは目を覆っていました。チョコレートをくれて、やめろとばかりの手振りに、さすがに悪ガキの僕たちも途中でやめましたが、こんな僕たちを見た彼らは「日本人は子供も残酷だ」と思ったでしょうね。次の日に僕たちは、松の木に登ってアオサギの巣から卵を一つ頂いて来て、また学校のグランドの片隅で空き缶に水を入れて下から火を燃やしてゆで卵の実験をしていました。出来上がったゆで卵を割ると中は黒ずんでいたので、気持ち悪くなって誰も食べるのをやめました。その日は、残念ながらチョコレートをくれた米軍のジープは来ませんでした。

  4. 危険な子供たち。

    大人の目から見た戦後の子供たちも、可愛く見えたのでしょうかね?。実際は親には言えない危険なことばっかりしていましたよ。チャンバラも本格的な戦いでしたから、子供の手作りとは言え、弓は真竹を曲げ、細い針金を弦にして、壊れた唐傘の骨が矢でしたから間違って従弟の頬っぺたに刺さって突き抜けました。目に当たらなくて良かったです。また石合戦では僕も目じりから血を流しましたが、親に問いただされて白状させられ、相手の両親と母が大喧嘩になりました。竜のヒゲと言う植物の実は藍色の薄皮の下に固い玉があって、それを竹鉄砲に詰めて押し込み、さらに実を詰めて後ろから細い針金棒で押し出すとパチン!と言う音とともに空気銃よろしく固い玉が勢いよく飛び出します。それが相手の耳に命中!取ってあげようと言っても聞かずに自分で耳の奥に入れてしまい、医者に連れて行ったおばあちゃんから、こっ酷く怒鳴られました。親父からはゲンコが飛んできました。また死のトロッコ遊びは一番スリルがありましたし、バスの後ろやトラックの荷台にぶら下がって隣町に遊びに行ったり、とっても今の子供たちには話せませんね。

    • 花火で失明したり、ケガはありましたが、総じて安全な子ども時代でしたね。ただ、とにかく
      子どもが死にました。豊平川でイカダ遊びで流されたり、北大の深いプールでバラ線の開いたところから入り
      溺死。冬は馬そりの後ろにスキーでつかまり、突然の停止で、そのまま顔が馬橇の下に突っ込み
      即死。自動車は圧倒的に少なくて交通事故は札幌の町は少なかった。忘れてました。空き地に捨て
      られた冷蔵庫に入り、出られなくなり、窒息死した子どもや、コンクリートのドラム缶が崩れて
      圧死もありました。

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