立ちション3話。

 

こんなテーマで書くのは初めて。しかし、偶然とはいえ1か月間に3人の男たちが筆者の周辺に現れてのだから書かないわけにはいかない。しかも二つは妻が目撃。目撃されたということは、以前から常習で行っていた可能性もある。歴史を調べれば、女性も平気で立ちションをしていた時代もあるので、それだけの文化史が探せばあるとは思うが、そういう高尚な話ではありません。

一人は昼間、自分の庭で歩道に面したヒバに向かって発射した70歳。妻は歩道を歩いていて、シャワー音が聞こえてちらりと庭を見たらしい。インシュリンを打っている糖尿病患者ではあるが、だからといって自分の庭でしなければいけないほど切羽つまっているわけではない。(本人に確かめてはいなが)。私も糖尿で新しい糖尿の薬は、トイレが近くなる作用があるが、自分の家のトイレに走ればいいだけである。彼は1日に何度も犬の散歩をするから、犬のオシッコを真似したくなったのかもしれない。いつも世間を睥睨して生きているような、他人とあいさつができない筆者の隣人だ。

もう一人は、向かいのおじいちゃん、90歳。隣は空き地で造園業者がユンボや土木機械やトラックの置き場になっている。朝の4時5時からエンジン音を鳴らして、うるさいことは確かだ。夜中の11時ころ、おじいちゃんが周りをキョロキョロ見渡し、誰もいないことを確認して、トラックのドアに向かってオシッコをかける。これもトイレに起きた妻が窓から目撃した。長い間、ずっとエンジン音に我慢してきたことを思えばトラックに向って発射したい気持ちがわからないわけではない。筆者もゆっくり起きたい土曜や日曜日にエンンジン音で何度も目を覚ましたから。この造園会社は先日倒産した。立ちションの呪い恐るべし。

三つ目は深刻で隣の町内会。お母さんと二人暮らしをしていた無職の男がお母さんが死去したと同時に、ブレーキが外れたように、近所の外塀にシッコをかけたり、ゴミを投げ入れたり、奇声を発したり、近所とのトラブルが絶えない60代無職。夏の間は沖縄の海へ行って留守なので、そのときは平和が保たれて「ずっと沖縄にいればいいのに」と言い合う近所。さらに怖いのは、冬の間の燃料にまきを使うらしく、マキ割をするために、ナタが何本かある。近所との口論も絶えず、先週の日曜日はパトカーが出動してきた。どこの家も鍵をかけるのを怠らず、緊張の毎日を送っている。赤外線カメラの設置も検討しているようで深刻である。

一つ目と二つ目の立ちションばかわいいものかもしれない。軽犯罪程度(しかし、自宅の庭でするのだから罪はないのかな?)の70歳。納得のいく怒りの90歳はよしとしよう。それでも臭い話だ。最後は怖い、本当に怖い。マキに火をつけられたり、マサカリが凶器にもなるから、横溝正史の世界になってしまう。いずれも共通は男だ。観光客を呼ぶガーデニングの街に、穏やかな住宅街に隠された立ちションの影がきょうも私の知らないところにあるかもしれない。一皮むけばこの町も、どこの街にもある、住む人の強度のストレスが各家庭の中に入り込んでいることだけは確かだ。ガーデニングは見栄の部分が大きい。傍から見ると一見豊かそうな暮らしに見えるが、それはごく一部で、引きこもりの娘や息子を抱えていたり、子供連れで離婚してきた娘と住んでいたり、どこも大変なのである。

相対的剥奪感という心理と現実。

友人と雑談をしていたら、『相対的剥奪感とストレス増加と病気の発生』の話になった。筆者がはじめて聞く言葉なので調べてみた。仏教研究者まで書いていた。自分が準拠する集団(教室、団地、会社、趣味やサークル、大学、ファンクラブなど)で身近であるがゆえに目の前の人と比べて競争状態に入る心理を言うらしい。そして現代流行りの『マウントごっこ』に入る。

わかりやすいのは一流企業に勤め、どこからみても高い給与と福利厚生で恵まれた暮らしをしているのに、昼飯になれば人事話ばかりでストレスを溜めて病気を誘発したり、SNS、特にフェイスブックに多い『自慢ごっこ』で疲れてしまったり、そのストレスからうつ病や内臓疾患を併発するケースも多く、長生き社会とはいえ、健康な心理状態・生活習慣にはなっていないと分析される。

友人の語る例で面白かったのは、高価格マンションに住む住人の間で、部屋の中に入ると、沢山の書籍を壁一面にきれいに置いてある。しかし、よく見ると『他人に見せるための書籍だ』ということが判明する(本好きならすぐにわかる)。高級住宅街の部屋も、入ると北欧デザインの使わないペチカが置いてあったり、それぞれ生きてる空間・準拠する集団の中で気苦労をしながら、ときにお金を使い日々人目を気にしながら生きているストレスを『相対的剥奪感』というのかもしれない。

小学生の孫を見ていても、髪につけるおしゃれグッズに気配りしている。誰々ちゃんは何色、私もこれが欲しいと。もちろんその母親族も然りである。東京ディズニーに何回行った、大阪USJに何度行った話が話題になる。これがセレブ集団になるとハワイへ行った、ロスのユニバーサルスタジオへ行くという話になる。そういうひとつひとつの話がグサグサと胸と頭に突き刺さる状態を『相対的剥奪感』。絶対的に遠い話はどうでもいいのである。手の届かないレベルは圏外になる。身近な人の身近な具体的な出来事と物にチクチクする。新型うつ病の発症はこのあたりにあるかもしれない。

スマホについてもどの機種、『やっぱりアップルだよね』に『そうだね』と相槌。慌てて『母さん、私も新しいスマホ欲しい』とおねだり。しかし、この生き方はエンドレスである。なぜなら、自分自身、時間の経過とともに準拠集団がどんどん変わっていくからである。最後は老人ホームか介護施設である。そこでもやはり『相対的剥奪感』があるとある学者の論文にあったが、筆者は何も存命年数の少ない老人を長い間観察して、数量化するより、学者の準拠する大学の先生方や学生たちを観察したほうが世のため人のためになるような気がする。

亡き母の遺言『この社会は妬み社会、他人が羨ましがるものは持つな』。ストレスをためないマイペースな人生提案である。人は人、自分は自分。若いときからこれを貫きとおすのは並大抵ではないなともこの年齢になって思う。

絶対的ではなく相対的な剥奪感なので、背伸びで手が届くあたりが悩ましいところである。それを後ろ押しするのがお金なのか時間の使い方か趣味の世界に没頭して外の世界を忘れる心境になればいいのか。

俺たちの脳みそは原始人の時代からほとんど進歩していない(ビートたけし)

北野武『全思考北野武』(幻冬舎161p)。ネアンデルター人だろうと現代に来てパソコンさくさく使える、スマホ使えるくらいの頭は持っているので、現代人はそんなに賢くもないよと遠回しに言っている。『文明の利器なんてものは、大半の人間にとっては、ただの魔法の箱、理解不能のブラックボックスだ。俺たちの頭の中身は、何千年も昔の人とまったく変わっていない。人類の文明を発達させたのは、ごく一握りの天才なのだ』。ブログを書いているデスクトップパソコンの中身はまだ開けたことはないし、自家用車にしても車の仕組みについてはからっきしだめ。テレビにしても映る仕組みについては無知に等しい。ただ使ってるだけ。故障したら直せない。ネアンデルタール人が獣を屠るとき、石矢の先から鋭さが消えたら、磨いたり、新しい矢をつくれる。何でも箱の中に入れ、見えない世界をつくることで秘密を囲われているようだ。(霞が関官僚みたいだ)CDでもどうして音が出てくるのか、DVDがどうして映像と音が再生されるのか。スマホや携帯に何個の部品があって、その機能がどう果たされているのか。なぜ、音が聞こえるのか。正確に答えられる人がどのくらいいるのか?ネアンデルタール人と現代人の脳は働き方において変わらないのではないだろうか。新型コロナウィルスについても、免疫の仕組みについて借りてきて読んでいるが難しい。そもそもウィルスがどうして出てきたのか?人類の歴史とともに古く「疫病の世界史が人間の歴史をつくる」ようにも見える。ウィルスは進化の原則からいくと生命の最小単位ウィルスが多細胞生物へ進んだとする説(今はやりのRNAワールド)と、元々、生物の体(細胞)にあったウィルスが外に飛び出したとする説がある。外に飛び出したので故郷に帰ってきたがる。細胞からの飛び出し説は世界の免疫学者多田富雄さん・日沼頼雄夫さんたちもその説だ(対談ウィルスの意味論)。細胞から飛び出してはみたものの、故郷へ帰りたくなり、また人間の細胞に感染しにくる、パンデミックは人の細胞に回帰するウィルスの巨大な物語だともいえる。ただ、ウィルス感染の仕組みについて解明され(?)、ワクチンが打たれはじめてはきたが、コロナのおかげでこれまで見えなかった人種差別や金持ちがこっそりワクチンを購入し、金の力で生き延びようとする富者の群れ(まるで芥川龍之介のクモの糸だ)を見せてくれる。