「エーゲ」(立花隆)2015年3月20日

ブログ90本記念に書きました。2021年4月30日に立花隆さん死去。

きょう、NHK午後10時から彼のドキュメンタリーを放映していた。1周忌だ。

筑摩文庫で買えるようになりました。

お陰様で3月18日から始まった「太古につながる生活者の目」というブログが90本目を迎えることになりました。途中から読み始めた読者もいらっしゃるかもしれませんので、3月20日に書いた記事を再録して、原点に帰ろうと思います。2度目の方はスルーして構いません。

前回は、「知の考古学」という雑誌の巻頭言から、この題名の由来について書かせてもらいましたが、今回は、立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。

20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)

「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)

立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。

日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。

*追記・・・ブログ7年目に入り、毎日書き続けているがいつまで続けられるか不安。本屋へ行けば、それぞれの関心どころの著作は並んでいるし、センセーショナルな見出しの週刊誌も、ついつい立ち読みをしてしまう。電車に乗れば、スマホ族がずらりと下を向いてゲームや友人と文字交換。サイバー空間で生きている。ハッカーたちはサイバー戦争を毎秒している。私たちのライフラインに入り込まなければと願うだけだ。それにしても「エーゲ」の完成まで22年かかっている。

人も企業も敷居を低くする生き方。

人も企業もこれまで、社会との間に高い壁をつくって仲間内で居心地のいい日常を暮らしてきた。閉鎖的ということは壁が厚かったり、壁が高過ぎて超えられないことだとすれば、そこは刑務所。秘密の多い企業(かつて消費者金融・武富士という会社は自分の社員にまで盗聴をしかけていた)もしかり、改竄文書をする財務省しかりである。決算の改竄をする会計事務所もそうだ。しかし、それをするのは具体的な名前を持った人で、彼らの秘密体質が企業や親分のためなら体を張って守る。他人や社会への敷居を高くして生きているわけだ。そういう公的な面で壁や秘密保持に邁進する一方、SNSでは自分をさらけ出す芸能人や政治家や私人が多い。そこで相手を叩いたり、叩かれたりしたり、自慢ごっこをしたり、遊んでいたりケンカをしている。空間と時間の無駄、電力の無駄利用ゴッコである。サーバーが可哀想である。

さらに過酷なのは、一度、自分について書かれた投稿が虚報であってもそれを消去させるまで、手続きが面倒なことで、過去に何かをしでかして掲載されたことが、20年30年してぶり返されて、現在の自分の頑張りを消し去ったり、地獄へ落とされるかもしれない恐怖だ。しかも投稿したのはほぼ全員、匿名者で直接抗議できない仕組みだ。どうやってそれを解決したらいいのか。弁護士を立ててライン社やツイッター社、フェイスブックへ削除の申し入れをしたり、投稿者を特定できる方法はあるが、費用もかかるし、生死に関わらないのであれば忍従している人も多いと思う。

匿名は、相当、その人に公共性が高くないと、人間の持つ両義性(善と悪)の悪性がぞろぞろ出てきやすい。相手と自分の敷居が水平であれば,丁寧語で語れるはずだ。目の前にその人がいるような環境で書いたり、しゃべったりできるはず。

コールセンターで勤めていた知人の奥さんの話では、電話主の罵声でうつ病を発した職員もいて、必ずそういうときはベテランの職員が変わって対応するし、「この電話は録音させていただきます」と防衛線を張っている企業も多い。

結果として、社会や企業や人々が「信用」や「信頼」を自ら崩してきた。たくさんの壁、不信と不審があちこちでつくられて息苦しい社会をつくってしまった。せめて、自分の周囲だけは開放的な伸びやかな空間をつくり、自由な発想が飛び交う世間にしたいものだ。

身辺雑記(2)4月25日

カフェ宮腰屋 大通り1丁目 室内

1)1か月ぶりにカメラを提げて札幌駅に降り立つ。駅を降りると喫煙スペースが閉鎖中。天井では強力なファンが回っているから、30年間喫煙してきた私からみたら5分限定でも喫煙OKにするかか、以前あったプラットフォームの両側に吸い殻入れを置いて、青空のもとで吸わせてはどうかなと思う。タバコ税は旧国鉄の負債を返すため清算事業団に使われているはず。果たして財務省がそれを守ってるかどうか確証はない。愛煙家をJRは大事にしないといけないはずだ。新型コロナはエアゾル感染なので、青空の下のプラットホームが安全といえる。経済的に余裕のある人は大いに喫煙しましょう。

札幌駅構内

2)4月から市立図書館で捨てられる本を整理するボランティアをしているが、本や雑誌の中に大切なものが入っていないか確認してから整理箱に入れる。以前、本から1万円札が出てきたこともあって、「それは凄い」「で、どうしたの?」と聞くと「図書館へ渡した」と。「なあんだ」と、会の臨時収入にすればいいのにと思った。きょうは近郊の読書家から大量の本が軽トラックで搬入された。調べると月刊雑誌「太陽」に切手シートが出てきた。1977年、大阪にオープンした「国立民族博物館開館」を記念したシートで未使用。中学生のとき流行した切手集めを思い出す。浮世絵シリーズが欲しかった。「月に雁」や「見返り美人」が幾らになってる相場を見ていた。書き損じのラブレターも過去発見されたという。本の中に大切なものを挟むのは危険かも。1000円札でも出てきてほしいものである。それにしても司馬遼太郎の単行本の多いこと。市立図書館の開架図書に置かれた司馬本よりきれいだ。出版年月から無料本に分類される。もったいない。手塚治の「ブラックジャック」の単行本も捨てられていた。何冊か欠本があるがリサイクル市に出す予定だ。これも発行年月からいくと無料に分類される。ボランティアに主婦が多いので司馬本は女性はあんまり読まないのかも。先週、読了した「オホーツク街道」もあった。ポリドールの映画音楽LPレコードも8枚出てきた。

エゾソメイヨシノ

3)札幌にも桜の季節がやってきた。大通り1丁目にあったNHK札幌放送局がすっかり解体された。移動したのは北1条西8丁目。大きなビルで設計が不安定だ。向かいの広告代理店の役員が「NHKは金持ちだね、税金投入とNHK受信料で経営できるんだから気楽なもんだ。社員の給与も高いんだろうね」「番組の最後に流されるテロップにNHKの関連会社名が出てくる。主に制作を扱う企業でNHK社員の天下り先になっている。BBCみたいな放送局を目指したが、いまでは自民党にすっかり怯える、非反骨集団になってしまった」と私。総務省から放送の許認可権を取り上げて第三者の委員会にそれを渡さないと政治権力に翻弄されるメディアで終ることは目に見えている。BBCの日本語ニュースが登録者32万人。(399) BBC News Japan – YouTube