健康病の恐ろしさ。

健康病の恐ろしさ・健康帝国からの脱出

これは伝染性を持っていて、他人に伝染させることを生きがいにしている。そして自分は正しいと思い込み、周りを健康情報で蔓延させる。いまのテレビ番組や新聞はほとんど感染状態で、特効薬は番組を切ること。新聞購読を止めて自衛策を講じる。

 

本屋へ行っても「健康」と名のつくコーナーへは近づかない。タバコが本当に肺がんの元凶とは思われず(筆者の見解、向かいの94歳のおじいちゃんが毎日ヘビーに吸っている)、むしろ車の排気ガスが原因だと思うが、自動車産業に従事する社員の数、石油化学に従事する人たち、GDPに占める%の高さ、過疎地域の足の手段、観光やホテル、修理場やディーラーで生活の糧を稼ぐ人たち、車の膨大な広告費で高い給与生活を維持しているテレビ局社員たちを考慮すれば、多少の健康の害は(二酸化イオウ排出など)目をつぶって、タバコ産業が生け贄になったわけである。そういう偏見を私は持っている。

 

このブログでも「健康帝国」で作文を書いたが(4月3日)、ほとんどの製薬メーカーを回り、営業マン(MR)の方々と余談をしたり、禁煙外来を設けるに至るまでに「日本医師会へ」膨大な寄付が製薬メーカーから寄せられていること。依存症と位置付けて病気にすれば、健保で薬を処方できて莫大な利益が薬メーカーに入る。国民皆保険であるがゆえに、薬メーカーは、薬好きな国民とあいまってモルモット状態にしている。病院と共犯関係にある。

 

たとえば、血圧降下剤がボケ人口を増加させているとしたらどうだろうか?血圧が高くないと血流が十分に脳へ回らない。高血圧者の方が長生きだと言う統計も出ている。コレステロール値もLDL(総コレステロール値)が140m/gmを超えると「はい、薬を飲みましょう」だ。ある学者が5000人のコレステロール値が140を超える人を5年間、追跡調査をしたら、低い人の死亡率が高い人より5倍高かった。コレステロールの場合、遺伝性以外、この数値はたいして意味がない。

 

意味がないことに、生活をかける開業医、薬局、薬メーカー、薬問屋が税金とモルモットである国民を食べている図式だ。加えてサプリだ。知人の奥さんが健康食品マニアで、山のようなサプリメントを食べていたが、あるとき脳梗塞で倒れた。手術して治ってから「もう、サプリメントは信用しない。金返せですよ」と見舞いのときに言っていた。

 

必要のないものを必要なように洗脳して売る商売。健康が絶対神であるかのような宗教の跋扈。どうにかならないか?「私は健康志向ですよ・・」といわんばかりに走っていたり、自転車乗ったり、「自分大好き、自分の健康だけ大好き人間」のナルシスト集団が今日も町を闊歩している。他人への説教だけはしないでね。どんな健康人も寿命が来たら尽きるのだから。

病は気から、気は病から。体は健康だが生き方は不健康も困るし、病の体ながら素晴らしい生き方をする人もいる。

中動態の世界(意志と責任の考古学)國分功一郎

第16回小林秀雄賞受賞作品で気にはなっていたが、難しい。中動態という新語。日常生活で、私たちが決断していること、行動していること、判断していることは、よくよく分析すると『強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。そうした事態は十分考えられる』。

咄嗟のことで反応できなくて、相手の言うままにうなずいてしまうとか、何も言わないことが同意と勘違いされたり、勘違いのまま釈明は面倒なのでそのままにしておくとか現実の暮らしに溢れるほどある。自発的か受動的という反対語ではない物事のながめ方を能動と中動と見れば、簡単に記述できるのだと。文法で能動態(active voice)と受動態(passive voice)を教えられる、しかもこの二区分しかないと教えられる。しかもこれは対立語である。そういう思考回路に世界中の人ははまっているし、日常生活で使われている。

言語の歴史においてこの区分は新しく、実は能動態の対立語は中動態であるとしたら。この本はその分析をギリシャ語・アリストテレスの本に遡り実証しようとする野心的な本である。たとえば『何かをやめられないのは(受動)、お前の意志が弱いから(能動)だよ』とは言えない。(行為は意志を原因としない)。現在の脳神経科学では、これは常識になっている。しかも、能動態と受動態という言語の区別は多くの言語ではしていない。さらにインド・ヨーロッパ語族の源流を訪ねても、この区別は本質的な区別ではない。能動態の対立語は中動態である。

中動態っていったい何?その具体的な内容が『強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している』ような事態である。言葉にしにくいが、曖昧なままで事態は過ぎてゆく。私たちの日常生活はほとんどこの形態で推移していると言っても過言ではない。こういう言葉使いはプラス志向とかマイナス志向にも反映されて、苦しんでる人をさらに苦しめている現実がある。意志があるから行為が生じるわけではないのである。アルコール中毒も『止めようという意志があるから止めれるものではない』。むしろ原因はそこに逃げなければならなかった事件がきっとあるはずだ。そこを求めよという話になる。

 

著者は本のプロローグでこんな対話を載せています。中動態の生き方の例ではないか。

ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね

『そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しんだってこともわかってないのね』

ああ、それはちょっとわかるかもしれないです。

『だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう』

ーそれは「この人は自分とは違う・・・』って感じるということですか?

『そういうものもあるかもしれないけど、人とのほどよい距離に耐えられない

≪中略≫

*ここで人(他人)とのほどよい距離に耐えらえる大切を書いたが、友人でも妻子とでも同じである。

自分でうまく相手を選ぶ、そもそも人間関係を選んでいいなんて知らないんです。

『ちょっと親しくなると、”全部わかってほしい”になる。相手と自分がピッタリ重なりあって(2個で一つ)の関係になろうとしてしまう。自分以外は見ないでほしい。自分以外としゃべってほしくない』

 

私事で恐縮ですが・・。恩人その1。

わたしは29歳で結婚したが、結婚までに私の両親、妹、兄から猛反対をされて勘当寸前までいった。その理由はたわいもないことなので書かないが、この結婚は兄弟間の仲を割いてしまう危機感が両親にあったのである。(現在は、そうでもないが後遺症はある)。しょうがないなあ、まあいいかと結婚した。

その間、いろいろ相談に乗ってくれた人に街の釣具屋さんの社長がいる。営業の休憩場所として使わせてもらった。結婚について、悩みを打ち明けて相談に乗ってもらい気が軽くなった。敬虔なクリスチャンであった。美味しい緑茶を飲みながら、社長のお父さんが残した書画や油絵・彫刻も見せてもらった。日本刀もあって、道立近代美術館の学芸員も見にくるそうだ。こういう作品がたくさんあって、長男の社長が預かっているわけである。自分も歳をとってくるから、この美術品をどこか保存・展示してくれる場所を探して、気にいった数点を残して寄贈しようとしたら、兄弟から待ったがかかった話をしてくれた。それを売ってお金にして財産分与してほしいと。

しかし、社長は頑として譲らず、函館の美術館に寄贈した。そういうこともあり、兄弟間とはいえ『意義アリ!』は面倒なものであるという体験を私の結婚同様していたのである。その後、筆者は2回の転職をして28年勤務できた会社に就職したときは、社長から三越の押印された地金の金5グラムを就職祝いにもらった。純金のプレゼントは子どもたちや孫たちへ、平素しているみたいだが、行きすがりの一営業マンに親身に結婚相談、就職祝いに金をいただく光栄に欲するとは嬉しい限りである。いまでも街中のギャラリー周りをご夫婦でしていて、挨拶をしたら、『お茶を飲みに来なさい』と言われるが、お店が廃業されて、自宅の居間に入ることになるので遠慮している。私の恩人である。5グラムの純金は34年間、自宅に置いてある。一度だけ、娘に出産記念に『持っていけ』と5グラム金を渡したが『要らない、くれるなら現金を』といわれた。わかっていない金の価値。