なぜブログを書くのか?(930本目になって)

なぜブログを書くのか?

恵庭図書館

妻から「なぜブログを書くの」と聞かれ、即答できなかった。仕事仲間から「瀬戸さん、ブログ書きなよ」と3年前から言われてはいたが、「別に主張したいことはないし・・・」とやんわり断っていた。顔の見える知り合いへは、メールを書けば済んでいるし、不自由はしていない。ただ、自分のメールはけっこう文が長くてメールの中で自己主張の文字数も多いことを発見。定年を機にブログを開設した次第。でも、なぜ書くのかの回答にはなっていない。

 

「1984」を書いたジョージ・オーエルのエセイで”Why I Write?”(1946年)という評論がある。作家の場合ではあるけど、4つの動機を列挙していた。①純然たるエゴイズム。頭がいいと思われたい、有名になりたい、死後に名声を残したい、子供のころにいじめた連中を見返したい。オーエルは、これは科学者・芸術家・政治家・実業家などとなんら変わることがないと。人類の数パーセントだと。②美への情熱・・・自分が好きでたまらない句を並べてみたり、本を並べたり(筆者のように)すると。③歴史的衝動・・物事をあるがままに見、真相を確かめて、これを子孫のために記録しておきたいという欲望。(ブログという営みの始まりはここと④か?)④政治的目的・・これは、広い意味で用いる。世界をある一定方向に動かしたい,世の人々が理想とする社会観を変えたいという欲望。(評論家や大学教授に多い)以上。③はジャーナリストや歴史家が多いと思う。

 

私はこれに⑤暇つぶしを入れたい。オーエルに叱られそうである。自分が暇だから誰からも依頼もされてないのにブログを書いて、多忙な相手の貴重な時間を奪うのは失礼な、非社会的な人間のすることかもしれない。でも、意外に多いこの暇つぶしブログ、この中に、キラキラ光る何事かが書かれているかどうか、発見があるかどうかは自分の関心領域・理解の深さに左右される。世界中で自分を含めて毎日吐かれる言葉の洪水、それを止めるのが「お気に入り」の機能か?自分の関心や興味を限定する機能だ。何回もやっていると、自分が偏見の魔窟に入っていくような気がして、新しい分野に関心領域を広げる努力だけはしている。近所の図書館でいつもと違うエリアで本探しをするのに似ている。ここまで書いても、なぜブログを書くのか自分でもわからない。読んでくれてありがとう。

レッテル貼りは伝染病かもしれない。

間は怠惰な動物で、自分で考えず、他人の思考や判断を鵜呑みにして、いろいろな現象にレッテルを貼って平気で毎日を生きていることが多い。

 

庭のアリやバラに止まるハチを見ていて、厳密には複雑な仕組みで動いているのだろうけれど、実にシンプルなそれぞれの生物人生を全うして羨ましく思うときがある。テレビもなく、勉強もなくて、数字のノルマもなく、景気が悪いから、「どうも最近この団地も高齢化が進み、花作りが10年前と比べて減っているから、蜜の採取できる花々が50%になった。したがって、退職金を上乗せするから早期に退職をしなさい」と女王蜂から言われたりはしない。

 

話題が筆者はすぐにアリに行ったりハチに行くが、なまじ言葉や言語を持ち、大きな大脳に言語野を抱えていながら、自分で考えて、自分で判断して行動することをいつのまにか忘れてしまっているのではないか。そう思う。しかし、考えることは記憶の蓄積がないと、どこかであれこれの知識がないと発生しない。だからまず、記憶の蓄積があって、そのための営みをしなければいけない。数字の計算なら回答は一つでわかりやすい。

 

しかし、同じ現象を見ていても、反対の結論を出してしまう錯覚もある。デモで殴り合いが始まったとする。カメラの視線が殴られた方から写すと被害を受ける画像であるが、実はその前に殴った側の方が見えないところで相当な暴力を受けていたとしたらどうなるか?報道は、必ず、2回3回と自分で点検してみないとどれが正しいか言えない。そして怖いのは、『一度、思い込みでレッテルを貼られると、それを剥がすのが何十倍も困難』だということで、軽々しく他人をああだこうだと言えない。それも情報弱者が、簡単にテレビや週刊誌の1行、新聞の週刊誌5段広告記事をさっと読み、ばっさり他人を裁く癖ができてしまったように感じるのは私だけだろうか?しかも、それがもう当たり前のような社会の雰囲気を感ずるのである。このレッテル貼りの習慣をどうにかして止められる方法はないものだろうか?「同調しない」癖を養う何かいい方法はないのだろうか?

キレない人間にならないための3つのこと。

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羊蹄山(4月8日今井昇撮影)

3月31日と4月1日に「キレる老人」のことを書いたが、キレないためにはどうしたらいいかという話だ。イエスは高利貸しの営みを見て、キレて(私にはそう見える)テーブルをひっくり返した。おシャカさんも何度もキレたことがあったろうと思う。筆者が床屋から帰ったら、キレないための古来からの処方箋について、知人からメールが入っていたので掲載します。クレーマー増加の記事も多いけど、キレる老人の本や特集、最近では中高年の男女まで書かれている。しかし、こうすればキレないよという日常の訓練もあるので、紹介する次第だ。食べる食品でも、青野菜を増やし、ジャンクフード減らしなさいとかアドバイス記事もあるだろう。今日は月曜日。キレることのない1週間をお過ごしください。

 

カッとなるというのは脊髄反射なので、誰も止めようがありません。

お釈迦様だってイエスだって、しょっちゅうムッときてたと思います。

問題はその次の発言や行動が、制御されているかどうか。

 

武道を経験すると、脊髄反射が怖いということを教えられます。

人は恐怖すると、身を縮めて腹や胸を守る防御姿勢をとってしまいます。

これは自動的な動きなので、直すことはできません。

攻撃者は相手を驚かし、一瞬ですが硬直した相手に技を仕掛けます。

驚いた相手がどういう姿勢をとるかわかってるので、技は簡単にかかります。

真正面から大声を出して襲いかかる技は、隙だらけのようですが

実は理にかなっています。武道の技は、基本的にふいうちです。

 

そこで、もし自分が突然の攻撃に驚いてパニックになっても、

無我夢中で動いても自然にダメージがすくなるような

動きの型を繰り返し練習して体に染み込ませるわけです。

周囲の人が見れば、敵の動きを予測したか、

落ち着いて反応したように見えても、当人の頭の中は大混乱。

でも、対処できたなら、自分が驚かなかったかのように振る舞います。

そうすれば、新たな襲撃者が諦めるかもしれないから。

 

昔の人は武士に限らず、脊髄反射で売り言葉に買い言葉をやってしまうのが

どれほど危険かわかっていたので、いろいろな修養の道を探りました。

商人や僧侶になると、一日中床に手をついてなんどもお辞儀させられるのは

体に染み込ませるためです。茶道などもそうでしょうね。

精神は体についていきますから、内心は煮えくり返っていても、

そのまま反応してことをこじらせないようにする訓練ですね。

 

これは知能指数が高かろうが知識があろうが、関係なく

訓練したかどうかで、キレるかどうかが決まります。

現代人は、一度も床に手をついてお辞儀したことのないような人がいます。

まして、優秀だ、リーダーだと持ち上げられて生きてきたなら

ちょっとでも職場を離れたり、立場が変わって押さえつけるものが

なくなったら、簡単に爆発してしまうでしょうね。

 

そういわれると、生き延びる知恵について書いていた人がいて、1番目は「丁寧に生きること」を挙げていた。自ら生きる上で、むざむざと敵を増やさない知恵とでもいおうか。それは、買い物をするときも、地域で生きるときも、仕事場でも家庭生活を営もうと、教師が生徒に対峙したり、教え教えられたりするときにも、共通の知恵かもしれません。その丁寧さが、昔も今もお辞儀に出てるのかもしれない。2番目は簡単そうで一番難しい「お先にどうぞ」という生き方をする。出世も電車・地下鉄乗車もエレベーターも。とても楽な生き方になりますよ。キレることがなくなります。誰からも喜ばれること請け合いです。その代り、給与が少し少ないかな。筆者はこの選択を50歳(心筋梗塞発症後)から実践してきた。3番目は「何事も絶対●●だと思い込まない」。科学の世界でも新発見で法則・考え方が変わる時代だ。それでも同じ歳の妻の口撃に我慢の限度でキレることが1年に2回ほどある。修行不足だ。情けない。自分ができないことを人に説くとは100年早いか?

遠回りだけど試してみる価値はあると思う。